戦争と平和
概要
19世紀前半のナポレオン戦争の時代を舞台に、アウステルリッツの戦いや、ボロディノの戦いを経てモスクワを制圧するもフランス軍が退却に追い込まれたロシア遠征[4] などの歴史的背景を精緻に描写しながら、1805年から1813年にかけてあるロシア貴族の3つの一族(ボルコンスキー公爵家、ベズーホフ伯爵家、ロストフ伯爵家)の興亡を中心に描き、ピエール・ベズーホフとナターシャの恋と新しい時代への目覚めを点描しながら綴った群像小説である。登場人物の一人ピエール・ベズーホフは、著者の分身と見られ、没落していくロシア貴族から、大地の上で強く生き続けるロシアの農民の生き様への傾倒へと続くピエールの魂の遍歴は、著者の心の動きの反映とも言われる。
本作の執筆当時、ロシアでは、それまで一般的だった古ロシア語に代わり、新たに整備された現代的なロシア語文法が浸透していたが、トルストイを含む上流階級は教養として慣れ親しんだフランス語を日常的に使用[5] していた。作中でも貴族達の会話にフランス語を交えたり、名前を「ピエール」とフランス風に呼ぶ(ロシア風ならピョートル)という、当時のロシア貴族に対するフランス文化の影響も描写している[6]。
登場人物は559人に上ると言われる。
主要人物
年齢は1805年時点。
ピエール(ピョートル・キリーロヴィチ・ベズーホフ)
本編の主人公。莫大な財産を持つキリール・ウラジーミロヴィチ・ベズーホフ伯爵の私生児の一人。父に愛され、その財産を継ぐ。フランス帰り。力自慢の偉丈夫。意志が弱く放蕩に耽りやすく、肥満している。フリーメイソンに加入する。
アンドレイ・ニコラーエヴィチ・ボルコンスキィ
ボルコンスキィ公爵家の長男、27歳の青年士官。ピエールの親友。優秀な実務家。アウステルリッツを含む対ナポレオン戦争に従軍。父ニコライ老公爵の友人クトゥーゾフ将軍の副官などを務め、オーストリア王宮への使者の任にも就いた。
マリヤ・ニコラーエヴナ・ボルコンスカヤ
アンドレイの妹。兄と違い、信心深い。決して美人とはいえないが、美しい瞳を持つ女性。父と共に領地で生活している。
ニコライ・イリーイチ・ロストフ
ロストフ伯爵家の長男。青年士官としてアウステルリッツに従軍する。軟弱な青年だったが、軍に馴染み、成長していく。
ナターシャ (ナターリア・イリーニチナ・ロストワ)
12歳。ニコライ・ロストフの妹。無邪気で天真爛漫な少女。多くの男性を惹き付ける。
ペーチャ(ピョートル・イリーイチ・ロストフ)
8歳。ニコライの末の弟。皇帝に心酔し、1812年ごろ、軍に仕官する。
14歳。ニコライの又従兄妹で、ロストフ伯爵家の居候。幼少の頃からニコライを一途に愛する。
ボリス
ニコライ兄妹の幼馴染。上昇志向が強い。様々な人脈を駆使して出世を遂げていく。幼い頃はナターシャに恋心を抱いていた。
ワシーリィ・ドミートリチ・デニーソフ
ロシア軍の士官。歴戦の勇士。アウステルリッツ以来のニコライの戦友。ナターシャに求婚するも受け入れられず。
アナトーリ・ワシーリエヴィチ・クラーギン
クラーギン公爵家の次男、ピエールの親戚にして放蕩仲間。享楽的で、数多の浮名を流す。ナターシャを誘惑する。
エレン・ワシーリエヴナ・クラーギナ
アナトーリの妹。絶世の美女にして社交界の花形。兄同様に享楽的な人物で、他者を堕落させる力を有する。財産を欲し、ピエールの妻となる。結婚後も、その放蕩生活は変わらない。
ドーロホフ
アナトーリの友人にして放蕩仲間。アナトーリを金蔓として利用している節がある。対フランス戦にもたびたび参加。活躍は多いが、その気性がたたり、昇格と降格を繰り返している。
実在の人物
ミハイル・イラリオーノヴィチ・クトゥーゾフ
ロシア軍の元帥。該当項目参照。作中での評価は高い。「神の意思を見きわめながら、それに自分の個人の意思を従わせる、数少ない、常に孤独な人間」。
ナポレオン・ボナパルト
フランス皇帝。該当項目参照。優秀な人物として描かれているが、それ以上に「巨大な歯車を前にした英雄の無力」をあらわす好例としての扱いのほうが強い。
アレクサンドル1世
ロシア皇帝。該当項目参照。作中に度々登場するがその描かれ方は没人格的。
《战争与和平》是俄国作家列夫·尼古拉耶维奇·托尔斯泰创作的长篇小说,也是其代表作,创作于1863—1869年。
该作以1812年的卫国战争为中心,反映从1805到1820年间的重大历史事件。以鲍尔康斯、别祖霍夫、罗斯托夫和库拉金四大贵族的经历为主线,在战争与和平的交替描写中把众多的事件和人物串联起来。
作者将“战争”与“和平”的两种生活、两条线索交叉描写,构成一部百科全书式的壮阔史诗。《战争与和平》的基本主题是肯定这次战争中俄国人民正义的抵抗行动,赞扬俄国人民在战争中表现出来的爱国热情和英雄主义。但作品的基调是宗教仁爱思想和人道主义,作家反对战争,对战争各方的受难并都给予了深切的同情。
在整个俄国文学的发展历史中,《战争与和平》是第一部具有全欧洲意义的小说。该小说还被多次改编成电影、电视剧、歌剧等。
概要
19世紀前半のナポレオン戦争の時代を舞台に、アウステルリッツの戦いや、ボロディノの戦いを経てモスクワを制圧するもフランス軍が退却に追い込まれたロシア遠征[4] などの歴史的背景を精緻に描写しながら、1805年から1813年にかけてあるロシア貴族の3つの一族(ボルコンスキー公爵家、ベズーホフ伯爵家、ロストフ伯爵家)の興亡を中心に描き、ピエール・ベズーホフとナターシャの恋と新しい時代への目覚めを点描しながら綴った群像小説である。登場人物の一人ピエール・ベズーホフは、著者の分身と見られ、没落していくロシア貴族から、大地の上で強く生き続けるロシアの農民の生き様への傾倒へと続くピエールの魂の遍歴は、著者の心の動きの反映とも言われる。
本作の執筆当時、ロシアでは、それまで一般的だった古ロシア語に代わり、新たに整備された現代的なロシア語文法が浸透していたが、トルストイを含む上流階級は教養として慣れ親しんだフランス語を日常的に使用[5] していた。作中でも貴族達の会話にフランス語を交えたり、名前を「ピエール」とフランス風に呼ぶ(ロシア風ならピョートル)という、当時のロシア貴族に対するフランス文化の影響も描写している[6]。
登場人物は559人に上ると言われる。
主要人物
年齢は1805年時点。
ピエール(ピョートル・キリーロヴィチ・ベズーホフ)
本編の主人公。莫大な財産を持つキリール・ウラジーミロヴィチ・ベズーホフ伯爵の私生児の一人。父に愛され、その財産を継ぐ。フランス帰り。力自慢の偉丈夫。意志が弱く放蕩に耽りやすく、肥満している。フリーメイソンに加入する。
アンドレイ・ニコラーエヴィチ・ボルコンスキィ
ボルコンスキィ公爵家の長男、27歳の青年士官。ピエールの親友。優秀な実務家。アウステルリッツを含む対ナポレオン戦争に従軍。父ニコライ老公爵の友人クトゥーゾフ将軍の副官などを務め、オーストリア王宮への使者の任にも就いた。
マリヤ・ニコラーエヴナ・ボルコンスカヤ
アンドレイの妹。兄と違い、信心深い。決して美人とはいえないが、美しい瞳を持つ女性。父と共に領地で生活している。
ニコライ・イリーイチ・ロストフ
ロストフ伯爵家の長男。青年士官としてアウステルリッツに従軍する。軟弱な青年だったが、軍に馴染み、成長していく。
ナターシャ (ナターリア・イリーニチナ・ロストワ)
12歳。ニコライ・ロストフの妹。無邪気で天真爛漫な少女。多くの男性を惹き付ける。
ペーチャ(ピョートル・イリーイチ・ロストフ)
8歳。ニコライの末の弟。皇帝に心酔し、1812年ごろ、軍に仕官する。
14歳。ニコライの又従兄妹で、ロストフ伯爵家の居候。幼少の頃からニコライを一途に愛する。
ボリス
ニコライ兄妹の幼馴染。上昇志向が強い。様々な人脈を駆使して出世を遂げていく。幼い頃はナターシャに恋心を抱いていた。
ワシーリィ・ドミートリチ・デニーソフ
ロシア軍の士官。歴戦の勇士。アウステルリッツ以来のニコライの戦友。ナターシャに求婚するも受け入れられず。
アナトーリ・ワシーリエヴィチ・クラーギン
クラーギン公爵家の次男、ピエールの親戚にして放蕩仲間。享楽的で、数多の浮名を流す。ナターシャを誘惑する。
エレン・ワシーリエヴナ・クラーギナ
アナトーリの妹。絶世の美女にして社交界の花形。兄同様に享楽的な人物で、他者を堕落させる力を有する。財産を欲し、ピエールの妻となる。結婚後も、その放蕩生活は変わらない。
ドーロホフ
アナトーリの友人にして放蕩仲間。アナトーリを金蔓として利用している節がある。対フランス戦にもたびたび参加。活躍は多いが、その気性がたたり、昇格と降格を繰り返している。
実在の人物
ミハイル・イラリオーノヴィチ・クトゥーゾフ
ロシア軍の元帥。該当項目参照。作中での評価は高い。「神の意思を見きわめながら、それに自分の個人の意思を従わせる、数少ない、常に孤独な人間」。
ナポレオン・ボナパルト
フランス皇帝。該当項目参照。優秀な人物として描かれているが、それ以上に「巨大な歯車を前にした英雄の無力」をあらわす好例としての扱いのほうが強い。
アレクサンドル1世
ロシア皇帝。該当項目参照。作中に度々登場するがその描かれ方は没人格的。
《战争与和平》是俄国作家列夫·尼古拉耶维奇·托尔斯泰创作的长篇小说,也是其代表作,创作于1863—1869年。
该作以1812年的卫国战争为中心,反映从1805到1820年间的重大历史事件。以鲍尔康斯、别祖霍夫、罗斯托夫和库拉金四大贵族的经历为主线,在战争与和平的交替描写中把众多的事件和人物串联起来。
作者将“战争”与“和平”的两种生活、两条线索交叉描写,构成一部百科全书式的壮阔史诗。《战争与和平》的基本主题是肯定这次战争中俄国人民正义的抵抗行动,赞扬俄国人民在战争中表现出来的爱国热情和英雄主义。但作品的基调是宗教仁爱思想和人道主义,作家反对战争,对战争各方的受难并都给予了深切的同情。
在整个俄国文学的发展历史中,《战争与和平》是第一部具有全欧洲意义的小说。该小说还被多次改编成电影、电视剧、歌剧等。
《犬、猫、鼠》鲁迅(上)
去年あたりから私を嫌猫家と呼ぶ人がでてきたようだ。その原因は私が書いた「兎と猫」にあり:これは自らまいた種だから、何も言うことは無いし、気にもしていない。が、今年に入って少し心配になってきた。というのも、私は常々、筆を弄して、いろいろ書いてきたが、一部の人には、痒いところを掻くというのは少なく、痛いところを突いている方が多いようだ。万一それが、著名人や名教授、更には「青年を指導する先輩諸兄に、不謹慎かつ非礼な言動と見られたら、とても危険極まりない、ということになる。なぜか?こうした大家はいちゃもんをつけることにかけては、すさまじいものがあるからである。どれほどすさまじいか、といえば、私の文に一晩中カリカリした後で、新聞に寄稿して攻撃してくるからである。
「見てみろ!犬は猫を仇敵視しているではないか!魯迅氏は自ら猫嫌いと認めていながら、今度は“水に落ちた犬を叩け”」と言いだした。
この“ロジック”の奥妙さは、私の発言でもって、私を(嫌猫家の)犬だと証明しておいてから、私の文章の根拠を根こそぎ覆すからだ。私の2X2=4、3X3=9という九九は、すべて不正解となる。これが正しくないとなると、紳士諸兄の口から出る、2X2=7,3X3=1,000 が正解となる。
そこで私はヒマを見つけて、犬と猫が仇敵関係になった“動機”を調べてみた。これは何も最近の学者が“動機”によって作品を評価しようとする流行を、僭越にも真似しようとするのではない。まずは自分で濡れ衣を晴らそうと思ったからにすぎない。動物心理学者にとっては、何の造作も無いことだろうが、惜しいかな、私にはその方面の学問がない。
そのうち、デンハルト博士の「自然史の国民童話」の中に、その原因を見つけた。それに依ると、こういうわけだ。動物たちが重要なことを決めるため会議を開いた。鳥、魚、獣、すべて集まったが、象が来ていない。使いを出して呼びに行くことになり、その籤を引いたのが、犬だった。「象というのはどうやって探すの?見たことも無いし、わからないよ」と訊いた。皆「そりゃ簡単さ」「象の背中は丸いから」と口ぐちに言った。犬は出かけた。途中で猫に会った。猫はいきなり背を弓なりに丸めたので、犬は象だと思って、会場まで同道してきて、背を弓のように曲げた猫を「みなさん象です」と紹介した。その場の全員が嘲笑った。これ以降、犬と猫は敵同士になった、という。
ゲルマン人は森を出てから、あまり時間が経っていないが、学問文芸では相当なものがある。本の装丁や玩具の精巧さには舌をまく。しかしこの童話はどうも頂けない:怨みあうきっかけも面白みに欠けるし、猫が背を弓なりにするのは、何もわざと格好つけたのではない。咎は犬の眼力の無さにある。だが、原因と言えば、一つの原因かもしれない。しかし、私の猫嫌いは、これとはまったく別ものだ。
人と獣の間は、本来なにも厳しく分ける必要はないの。動物の世界も、古人が幻想したほどには自由で快適とはゆかないものだ。が、ぶつぶつ文句を言ったり、見え透いた嘘をつくなどしない点では、人間社会より優れている。彼らは感情に素直で、正は正、誤は誤として弁解しない。蛆虫は清潔とは言えないが、自分から清らかで気高いなどとは言わない:猛禽猛獣は、自分より弱い動物を餌食にするから凶暴と言わざるを得ぬが、彼らは従来から「公理」だの「正義」だのという旗を振ったりしたことはない。それにもかかわらず、犠牲者たちから、食われる直前まで、敬服され称賛されてきている。
人が直立できたのは、もちろん大進歩だし:話せるようになったのもそうだ:字を書き文を作れるのも大進歩。一方これは堕落でもある。それ以来、空談もするようになったからで、空談だけならいいが、心にもないこと、あるいは心にもとることを、知らず知らずに言いだした。ただ吼え叫ぶだけの動物に比べ、実に“厚かましい”し“忸怩たる”を免れない。もし一視同仁の造物主が高みから、人類のこうした小賢しさを、よけいなことと思い、まさしく動物園で、猿がとんぼ返りするのや、母象がお辞儀するのを見たら、破顔一笑はするものの、どうも薄気味悪く、一種の悲哀を感じ、こういう余計な小賢しさは無い方が良いと思うのと似ている。
しかし、人間になった以上、“徒党を組んで異端を倒す”しかなく、他人の話すのをまねて、俗に従って話し、弁別するほかは無い。
さて、これから私の猫嫌いの理由を書くが、自分としては十分な根拠があり、公明正大だと思っている。
1.性格は他の猛獣と異なり、スズメや鼠をつかまえても、一口に殺そうとはせず、思う存分もてあそび、放しては捕まえ、また放して捕まえる。もう飽きたと思う頃まで弄んでから食う。この点、他人の災禍を楽しむ人間が、弱い者をまずいじめるのと似ている。
2.猫は獅子や虎と同種ではないか?しかるにこんな媚態をするとは!が、これも天分かもしれない。もし猫の体が今より十倍も大きければどんな態度をとることやら。しかし、これらの口実は、今筆をとって、思いつくままに書いたものだが、当時の気持ちとしてはそういう理由があると思ったのである。
ズバリ言うなら、猫の交合時の鳴き声のせいだと言う方が強いだろう。そこに至るまでの手続きがうるさく、他者の心を煩わすことすさまじい。特に夜、読書中、就寝中など、こんな時は長い竹竿で、叩いてやる。犬は道で交合するが、閑人が棍棒で痛打する:かつてブリューゲルの銅版画アルゴリー デル ウオルストにこの種の絵があった。こうした挙動は、古今内外同じようだ。あの執拗なオーストリーの学者フロイトが提唱した精神分析以来、(章士釧氏は「心解」と題したが、簡単で古風な訳だが、実はとても理解しがたい)我々の著名人、名教授もすこぶるあいまいな形で、拾い出してきて応用してきた。これはつまるところ、性欲に帰納されそうだ。犬を叩くことについては、ここでは触れない。
猫を叩くについては、やかましい、というだけである。それ以外なんの悪意もない。
私の嫉妬心は、たいして大きくないという自信がある。今、“何か動けば、咎を受ける”状況にあるから、まずはあらかじめ声明しておかねばならない。例えば、人間は交合の前に、いろいろな手続きが要る。新式ではラブレター、少なくもひと束、多いのはひと箱も要る。
古くは“釣り書き”“結納”、頭を床につける儀礼、去年、海昌の蒋家が北京で婚礼した時、祝いの儀礼が三日も続き、果ては、赤表紙の“婚礼節文”“序論”を印刷し、大変な議論となった:“平常心からこれを論じるに、名付けて礼というからには、必ず何回も行わねばならない。それをもっぱら簡易にしようとするなら、何を以て礼となさんか?……しからば、世の中で、礼に志ある人は、以て興るべし!礼の下らない庶人の地位に退居してはならぬ!と。
だが、私はなにも怒る気にすらならなかった。それは私が出席する必要に迫られなかったからだ:それゆえ、私の猫を敵視するのも、理由は実に簡単ということが判る。要するに、私の耳の近くでうるさく鳴き叫ぶからである。他人の各種の儀礼については、部外者は何も気にしないでよい。私はなにも構わない。だが、読書している時、または寝ているときに、他人が来て、ラブレターを声に出して呼んでくれとか、一緒に儀式に出て呉れというなら、自衛のために、長い竹竿で防御しなければならない。
また、平素交際の無い人が、赤い招待状を寄こして“妹の嫁入りにご臨席を”とか
“息子の婚礼に”“何卒ご出席”“御一統さま全員で”とかの文言には“陰険な暗示”を含んでおり、お金を出さなければ、気持ち悪いことになり、楽しくないのだ。
しかし、こうしたことは最近のことに過ぎない。顧みるに、私の猫嫌いについては、ずっと昔からで、こんな理由を言い出す前、十歳ごろのことだ。今もはっきり覚えているが、原因は極めて簡単で、猫が鼠を食ったからだ。―――私が飼っていた可愛くて小さなハツカネズミを食ったのだ。
西洋では黒猫を好まぬようだが、確かなことは知らない:エドガー アランポーの小説の黒猫は、人を恐れさせるが、日本の猫は化けるのが上手く、伝説の猫婆は、人間を食うそうで、残酷さは確かに恐ろしい。中国の古代にも猫の妖怪がいたが、近来猫が妖怪になるのを聞かなくなった。どうやら古い手口は失われて、現実的になったようだ。ただ、私が幼いころ、猫には妖気があり、どうもなじめなかったようだ。それは、ある夏の夜に金木犀の下の小さな木の卓上で、横になって涼んでいた時、祖母が隣で芭蕉扇をあおぎながら、謎々や、昔話をしてくれたとき、突然、金木犀の木の上から、ザザーっと爪を引っ掻く音、暗闇にキラッと光る眼が、音とともに下りて来て、びっくりした。祖母の話も途切れ、それまでの話とは別の猫の話に変わった。
「猫は虎の先生だったって知っているかい?」と祖母。「子供は知らないだろうけど、猫は虎の先生なのよ。虎はもともと何もできなかったので、猫の弟子になったの。猫は殴り方や捉え方、食べ方を、丁度鼠を捕まえるときのように教えたの。みんな教わったら:虎はもう全部マスターした。誰も自分にかなう者は無い。ただ猫だけは自分より強い、もし猫を殺してしまえば、自分が最強になれる。虎はそう思うと、すぐさま猫を倒しに向かった。猫はとっくにそれを察知してぴょんと樹上に跳んだ。虎はなすすべも無く、木の下でうずくまるのみ。すべての技を教えた訳ではない。木の上に登ることは教えなかった。これは僥倖だと私は思った。幸いなことに、虎はとても性急なので、(木登りはマスターせずじまいだったからよかったが)さもなければ、金木犀から虎が下りてくることもあり得るのだ。
しかし、私はその話を聞いて怖くなって、部屋に戻って寝ようと思った。夜はだいぶ更けて:金木犀の葉は、さわさわ音を立て、微風が吹いて来て、茣蓙も少しは涼しくなって、寝がえりをしなくても眠れそうだった。
築数百年の古い屋敷の豆油の灯の、うすぼんやりとした光は、鼠が跳梁する世界で、飄々と走り回り、チュッチュッと鳴き、その態度は往々にして“著名人や名教授”たちより軒昂である。猫は飼われていて食べるに困らない。祖母たちは普段は、衣裳箱をかじるし、食べ物を盗み食いする鼠を憎んでいたが、私はたいしたことではないと思い、自分には無関係だし、そんな悪いことをするのは、大抵は大きな鼠で、私の好きな小さな鼠の悪口を言うのは良くないと思っていた。この小鼠は、地上を走りまわり、親指ほどの大きさで、私の地方では隠鼠(二十日鼠の類か)と呼び、梁の上で駆けまわる人に憎まれるのとは別種だった。
私の寝床の前に2枚の絵入りの襖があり、1枚は「猪八戒の婿入り」で全面に長い口と大きな耳が描かれ、良い眺めではなかったが、もう1枚は「鼠の嫁入り」でとても可愛かった。新郎新婦がお供や賓客、執事などみなアゴが尖り、足も細くてとても読書人みたいだが、みな赤いシャツと青いズボンである。こんな大規模な儀式を行えるのは私の好きな隠鼠に違いないと思った。
去年あたりから私を嫌猫家と呼ぶ人がでてきたようだ。その原因は私が書いた「兎と猫」にあり:これは自らまいた種だから、何も言うことは無いし、気にもしていない。が、今年に入って少し心配になってきた。というのも、私は常々、筆を弄して、いろいろ書いてきたが、一部の人には、痒いところを掻くというのは少なく、痛いところを突いている方が多いようだ。万一それが、著名人や名教授、更には「青年を指導する先輩諸兄に、不謹慎かつ非礼な言動と見られたら、とても危険極まりない、ということになる。なぜか?こうした大家はいちゃもんをつけることにかけては、すさまじいものがあるからである。どれほどすさまじいか、といえば、私の文に一晩中カリカリした後で、新聞に寄稿して攻撃してくるからである。
「見てみろ!犬は猫を仇敵視しているではないか!魯迅氏は自ら猫嫌いと認めていながら、今度は“水に落ちた犬を叩け”」と言いだした。
この“ロジック”の奥妙さは、私の発言でもって、私を(嫌猫家の)犬だと証明しておいてから、私の文章の根拠を根こそぎ覆すからだ。私の2X2=4、3X3=9という九九は、すべて不正解となる。これが正しくないとなると、紳士諸兄の口から出る、2X2=7,3X3=1,000 が正解となる。
そこで私はヒマを見つけて、犬と猫が仇敵関係になった“動機”を調べてみた。これは何も最近の学者が“動機”によって作品を評価しようとする流行を、僭越にも真似しようとするのではない。まずは自分で濡れ衣を晴らそうと思ったからにすぎない。動物心理学者にとっては、何の造作も無いことだろうが、惜しいかな、私にはその方面の学問がない。
そのうち、デンハルト博士の「自然史の国民童話」の中に、その原因を見つけた。それに依ると、こういうわけだ。動物たちが重要なことを決めるため会議を開いた。鳥、魚、獣、すべて集まったが、象が来ていない。使いを出して呼びに行くことになり、その籤を引いたのが、犬だった。「象というのはどうやって探すの?見たことも無いし、わからないよ」と訊いた。皆「そりゃ簡単さ」「象の背中は丸いから」と口ぐちに言った。犬は出かけた。途中で猫に会った。猫はいきなり背を弓なりに丸めたので、犬は象だと思って、会場まで同道してきて、背を弓のように曲げた猫を「みなさん象です」と紹介した。その場の全員が嘲笑った。これ以降、犬と猫は敵同士になった、という。
ゲルマン人は森を出てから、あまり時間が経っていないが、学問文芸では相当なものがある。本の装丁や玩具の精巧さには舌をまく。しかしこの童話はどうも頂けない:怨みあうきっかけも面白みに欠けるし、猫が背を弓なりにするのは、何もわざと格好つけたのではない。咎は犬の眼力の無さにある。だが、原因と言えば、一つの原因かもしれない。しかし、私の猫嫌いは、これとはまったく別ものだ。
人と獣の間は、本来なにも厳しく分ける必要はないの。動物の世界も、古人が幻想したほどには自由で快適とはゆかないものだ。が、ぶつぶつ文句を言ったり、見え透いた嘘をつくなどしない点では、人間社会より優れている。彼らは感情に素直で、正は正、誤は誤として弁解しない。蛆虫は清潔とは言えないが、自分から清らかで気高いなどとは言わない:猛禽猛獣は、自分より弱い動物を餌食にするから凶暴と言わざるを得ぬが、彼らは従来から「公理」だの「正義」だのという旗を振ったりしたことはない。それにもかかわらず、犠牲者たちから、食われる直前まで、敬服され称賛されてきている。
人が直立できたのは、もちろん大進歩だし:話せるようになったのもそうだ:字を書き文を作れるのも大進歩。一方これは堕落でもある。それ以来、空談もするようになったからで、空談だけならいいが、心にもないこと、あるいは心にもとることを、知らず知らずに言いだした。ただ吼え叫ぶだけの動物に比べ、実に“厚かましい”し“忸怩たる”を免れない。もし一視同仁の造物主が高みから、人類のこうした小賢しさを、よけいなことと思い、まさしく動物園で、猿がとんぼ返りするのや、母象がお辞儀するのを見たら、破顔一笑はするものの、どうも薄気味悪く、一種の悲哀を感じ、こういう余計な小賢しさは無い方が良いと思うのと似ている。
しかし、人間になった以上、“徒党を組んで異端を倒す”しかなく、他人の話すのをまねて、俗に従って話し、弁別するほかは無い。
さて、これから私の猫嫌いの理由を書くが、自分としては十分な根拠があり、公明正大だと思っている。
1.性格は他の猛獣と異なり、スズメや鼠をつかまえても、一口に殺そうとはせず、思う存分もてあそび、放しては捕まえ、また放して捕まえる。もう飽きたと思う頃まで弄んでから食う。この点、他人の災禍を楽しむ人間が、弱い者をまずいじめるのと似ている。
2.猫は獅子や虎と同種ではないか?しかるにこんな媚態をするとは!が、これも天分かもしれない。もし猫の体が今より十倍も大きければどんな態度をとることやら。しかし、これらの口実は、今筆をとって、思いつくままに書いたものだが、当時の気持ちとしてはそういう理由があると思ったのである。
ズバリ言うなら、猫の交合時の鳴き声のせいだと言う方が強いだろう。そこに至るまでの手続きがうるさく、他者の心を煩わすことすさまじい。特に夜、読書中、就寝中など、こんな時は長い竹竿で、叩いてやる。犬は道で交合するが、閑人が棍棒で痛打する:かつてブリューゲルの銅版画アルゴリー デル ウオルストにこの種の絵があった。こうした挙動は、古今内外同じようだ。あの執拗なオーストリーの学者フロイトが提唱した精神分析以来、(章士釧氏は「心解」と題したが、簡単で古風な訳だが、実はとても理解しがたい)我々の著名人、名教授もすこぶるあいまいな形で、拾い出してきて応用してきた。これはつまるところ、性欲に帰納されそうだ。犬を叩くことについては、ここでは触れない。
猫を叩くについては、やかましい、というだけである。それ以外なんの悪意もない。
私の嫉妬心は、たいして大きくないという自信がある。今、“何か動けば、咎を受ける”状況にあるから、まずはあらかじめ声明しておかねばならない。例えば、人間は交合の前に、いろいろな手続きが要る。新式ではラブレター、少なくもひと束、多いのはひと箱も要る。
古くは“釣り書き”“結納”、頭を床につける儀礼、去年、海昌の蒋家が北京で婚礼した時、祝いの儀礼が三日も続き、果ては、赤表紙の“婚礼節文”“序論”を印刷し、大変な議論となった:“平常心からこれを論じるに、名付けて礼というからには、必ず何回も行わねばならない。それをもっぱら簡易にしようとするなら、何を以て礼となさんか?……しからば、世の中で、礼に志ある人は、以て興るべし!礼の下らない庶人の地位に退居してはならぬ!と。
だが、私はなにも怒る気にすらならなかった。それは私が出席する必要に迫られなかったからだ:それゆえ、私の猫を敵視するのも、理由は実に簡単ということが判る。要するに、私の耳の近くでうるさく鳴き叫ぶからである。他人の各種の儀礼については、部外者は何も気にしないでよい。私はなにも構わない。だが、読書している時、または寝ているときに、他人が来て、ラブレターを声に出して呼んでくれとか、一緒に儀式に出て呉れというなら、自衛のために、長い竹竿で防御しなければならない。
また、平素交際の無い人が、赤い招待状を寄こして“妹の嫁入りにご臨席を”とか
“息子の婚礼に”“何卒ご出席”“御一統さま全員で”とかの文言には“陰険な暗示”を含んでおり、お金を出さなければ、気持ち悪いことになり、楽しくないのだ。
しかし、こうしたことは最近のことに過ぎない。顧みるに、私の猫嫌いについては、ずっと昔からで、こんな理由を言い出す前、十歳ごろのことだ。今もはっきり覚えているが、原因は極めて簡単で、猫が鼠を食ったからだ。―――私が飼っていた可愛くて小さなハツカネズミを食ったのだ。
西洋では黒猫を好まぬようだが、確かなことは知らない:エドガー アランポーの小説の黒猫は、人を恐れさせるが、日本の猫は化けるのが上手く、伝説の猫婆は、人間を食うそうで、残酷さは確かに恐ろしい。中国の古代にも猫の妖怪がいたが、近来猫が妖怪になるのを聞かなくなった。どうやら古い手口は失われて、現実的になったようだ。ただ、私が幼いころ、猫には妖気があり、どうもなじめなかったようだ。それは、ある夏の夜に金木犀の下の小さな木の卓上で、横になって涼んでいた時、祖母が隣で芭蕉扇をあおぎながら、謎々や、昔話をしてくれたとき、突然、金木犀の木の上から、ザザーっと爪を引っ掻く音、暗闇にキラッと光る眼が、音とともに下りて来て、びっくりした。祖母の話も途切れ、それまでの話とは別の猫の話に変わった。
「猫は虎の先生だったって知っているかい?」と祖母。「子供は知らないだろうけど、猫は虎の先生なのよ。虎はもともと何もできなかったので、猫の弟子になったの。猫は殴り方や捉え方、食べ方を、丁度鼠を捕まえるときのように教えたの。みんな教わったら:虎はもう全部マスターした。誰も自分にかなう者は無い。ただ猫だけは自分より強い、もし猫を殺してしまえば、自分が最強になれる。虎はそう思うと、すぐさま猫を倒しに向かった。猫はとっくにそれを察知してぴょんと樹上に跳んだ。虎はなすすべも無く、木の下でうずくまるのみ。すべての技を教えた訳ではない。木の上に登ることは教えなかった。これは僥倖だと私は思った。幸いなことに、虎はとても性急なので、(木登りはマスターせずじまいだったからよかったが)さもなければ、金木犀から虎が下りてくることもあり得るのだ。
しかし、私はその話を聞いて怖くなって、部屋に戻って寝ようと思った。夜はだいぶ更けて:金木犀の葉は、さわさわ音を立て、微風が吹いて来て、茣蓙も少しは涼しくなって、寝がえりをしなくても眠れそうだった。
築数百年の古い屋敷の豆油の灯の、うすぼんやりとした光は、鼠が跳梁する世界で、飄々と走り回り、チュッチュッと鳴き、その態度は往々にして“著名人や名教授”たちより軒昂である。猫は飼われていて食べるに困らない。祖母たちは普段は、衣裳箱をかじるし、食べ物を盗み食いする鼠を憎んでいたが、私はたいしたことではないと思い、自分には無関係だし、そんな悪いことをするのは、大抵は大きな鼠で、私の好きな小さな鼠の悪口を言うのは良くないと思っていた。この小鼠は、地上を走りまわり、親指ほどの大きさで、私の地方では隠鼠(二十日鼠の類か)と呼び、梁の上で駆けまわる人に憎まれるのとは別種だった。
私の寝床の前に2枚の絵入りの襖があり、1枚は「猪八戒の婿入り」で全面に長い口と大きな耳が描かれ、良い眺めではなかったが、もう1枚は「鼠の嫁入り」でとても可愛かった。新郎新婦がお供や賓客、執事などみなアゴが尖り、足も細くてとても読書人みたいだが、みな赤いシャツと青いズボンである。こんな大規模な儀式を行えるのは私の好きな隠鼠に違いないと思った。
宮世琉弥 真似はせず、自分らしく勝負をして「北村匠海くんにいつか追いつけるように頑張りたい」<恋わずらいのエリー>
藤ももの人気少女コミック『恋わずらいのエリー』(講談社「デザートKC」刊)を宮世琉弥と原菜乃華のW主演で実写映画化。2024年3月15日から全国公開される。物語は、ウラオモテ王子と妄想大好きなヒロインのエリーが織りなすラブストーリーで、宮世は本作が映画初主演。4月10日(水)にアルバム『PLAYLIST』でメジャーデビューも控えるなど、マルチに活躍している。今回のインタビューでは、1月22日に20歳を迎えた宮世に今の心境をたっぷりと語ってもらった。
【撮りおろし10枚】優しい視線にキュン…宮世琉弥がこちらをのぞき込むカット
■オミくんを演じるにあたって「僕も普段から原さんにツンツンしてみました」
――宮世さんが演じた学校イチのさわやか王子・オミくんは、じつは口が悪い“ウラオモテ男子”の一面を持つキャラクター。役に共感できる部分は、どんな所でしたか?
僕はウラオモテ王子ではないですけど、自分のプライドが邪魔をして、本当の気持ちを言えない所は、共感できます。エリー(原)と出会うことによって、少しずつ素直になっていくんですが、自分の気持ちに正直になれないのは、思春期の男子“あるある”だなと思いました。
僕は、反抗期はほとんどなかったんですけど、お母さんや友達に対しては、オミくんのようにプライドが邪魔をして、本音を言えないことがあって、そんな自分にちょっとムカついてしまう…なんてこともありました。
――オミくんを演じるにあたって、意識された点はどんな所でしょうか。
オミくんはエリーに対して、ツンデレなので、僕も普段からツンツンしてみました。この作品の三木康一郎監督がツンデレな方で。監督から色々盗んでお芝居に落とし込んでいました。
――胸キュンシーンが盛りだくさんな作品ですが、注目ポイントのひとつ、“ジャージキス”の撮影は、いかがでしたか?
演じるこちら側は、見せ方とかいろいろ考えることがあって、キュンキュンする暇はゼロでした(笑)。1日目のロケは、砂嵐で撮影が出来なくて。ジャージのチャックを開けた時に顔が見える具合を計算しなくてはいけなくて、何度も繰り返しました。本当に難しかったです。
――タイミングも計算しなくてはいけないですからね。
胸キュンシーンでは、「俺の彼女だよ」って言う台詞があって。僕、緊張したのか、台詞が吹っ飛んでしまったんです。思わず、「俺の……カ~ノジョ!」って小首をかしげて言ってしまって、本番中にみんな大爆笑してました! 次からのテイクは、笑いそうになってしまって、もう本当に地獄でした(笑)。
■理想の女性像は“相手の立場に立って物事を考えられる人”
――エリーみたいな妄想が大好きな女の子、宮世さんはどう思いますか?
エリーは“恋わずらいのエリー”の名前で、SNSでオミくんとの恋の妄想をつぶやいていて、そうやって本人が知らない所でやっているのが可愛いです。恥ずかしさから、好きバレしたくないという気持ちがかわいらしいですよね。
実際、そういう妄想好きな女の子っていると思うんですが、共感できる部分がたくさんあるんじゃないかなと思います。もし自分のことをSNSでつぶやかれたら…、妄想の内容にもよりますけど、うれしいです(笑)。
――オミくんは本当の自分を見てくれて、全部受け止めてくれるような人が好きですが、宮世さんの理想の女性像は?
僕は、相手の立場に立って物事を考えられる女性がすてきだなと思います。オミくんの理想の女性像もいいなと思いますけど、まだちょっと子供ですよね。エリーがクラスメイトの要くん(西村拓哉)と仲良く話している姿を見て、嫉妬しちゃったり。
――オミくんのようにウラオモテ王子ではないという宮世さんですが、オンオフの切り替えは、どのようにしていますか。
僕はオンオフの切り替えが苦手で、「あれもこれもやんなきゃ」って永遠に頭の中でループしてしまって、どうしようって悩んでいた時に、先輩から「自分の好きなことをしたらいいよ」って教えていただいて。それからはアニメを観たり、写真を撮ったり、好きなことを10分でもいいのでやるようにしています。
■20代は「自分のやりたいことを突き詰めてやってみたい」
――宮世さんは、1月22日で20歳を迎えられましたが、10代最後の制服になりましたね。どんなカッコいい人になりたいですか。
制服は、まだまだ行けるなと思っていて。20歳になっても、着たいですね。三木監督は、カッコいいとはなんぞやを追求されていて、「オミくんは等身大のイケメンであって欲しい」と言われたんです。自分なりに「カッコいい男ってどういう人だろう」って考えた結果、自分の我を出さず、相手の気持ちをくみ取ってあげられることなのかなと。
僕には年下の妹がいて、よくケンカするんです。「普通は、こうするじゃん」って言ったら、「普通って何!?」って言ってくるので、乙女心は難しいです(笑)。でも、カッコいい大人になるため、今後はケンカしないようにしたいです。
――20歳を迎えて、プライベートでやってみたいことはありますか。
今までやったことのないことをいろいろ経験して、その体験を通して表現力を磨いて、役にしっかり還元できたらと思います。
――20歳を記念する単独初ライブを東京国際フォーラムで開催するなど、音楽活動も精力的にされています。駆け引きをテーマにしたラブソング「Lightning」では、ハードなダンスチューンで色気たっぷりに歌う姿が大人っぽくて、新鮮に映りました。
10代では歌ってきていない雰囲気の楽曲も増えてきていて、僕のことを昔から知ってくれていた方にとっては、今までにない宮世も楽しんでもらえると思います。俳優業では、自分ではなく、役を演じていますが、音楽ではより自分が届けたいものを自分らしく表現していきたいです。
ニルヴァーナやレッド・ホット・チリ・ペッパーズ、ブランキ―ジェットシティ、浜田省吾さんなど、好きなアーティストの方はたくさんいて、影響を受けてきました。今後は、バラードも歌いたいですし、いろんな曲調や雰囲気の楽曲で僕のエンターテインメントを届けていきたいですね。ライブのステージも自分のやりたいことを突き詰めてやってみたいです。
■今後挑戦したい作品は“異世界転生もの”
――ちなみに尊敬される俳優さんとして、同じ事務所に所属している北村匠海さんの名前をよくあげていらっしゃいますが、どんな所をリスペクトされていますか。
匠海くんは、俳優活動だけでなく、音楽活動もどちらも活躍されているじゃないですか。自分も俳優と音楽、両方で活動しているので、匠海くんにいつか追いつけるように頑張りたいと、背中を見つめている先輩です。ずっとリスペクトしています。
――今作で念願のラブストーリーの主演が実現しましたが、今後やってみたい作品は?
コメディーをやりたいです! 原作があって癖が強いキャラクターの実写版を演じたいですね。異世界転生もので、実写化されていない作品があれば、ぜひチャレンジしたいです。
藤ももの人気少女コミック『恋わずらいのエリー』(講談社「デザートKC」刊)を宮世琉弥と原菜乃華のW主演で実写映画化。2024年3月15日から全国公開される。物語は、ウラオモテ王子と妄想大好きなヒロインのエリーが織りなすラブストーリーで、宮世は本作が映画初主演。4月10日(水)にアルバム『PLAYLIST』でメジャーデビューも控えるなど、マルチに活躍している。今回のインタビューでは、1月22日に20歳を迎えた宮世に今の心境をたっぷりと語ってもらった。
【撮りおろし10枚】優しい視線にキュン…宮世琉弥がこちらをのぞき込むカット
■オミくんを演じるにあたって「僕も普段から原さんにツンツンしてみました」
――宮世さんが演じた学校イチのさわやか王子・オミくんは、じつは口が悪い“ウラオモテ男子”の一面を持つキャラクター。役に共感できる部分は、どんな所でしたか?
僕はウラオモテ王子ではないですけど、自分のプライドが邪魔をして、本当の気持ちを言えない所は、共感できます。エリー(原)と出会うことによって、少しずつ素直になっていくんですが、自分の気持ちに正直になれないのは、思春期の男子“あるある”だなと思いました。
僕は、反抗期はほとんどなかったんですけど、お母さんや友達に対しては、オミくんのようにプライドが邪魔をして、本音を言えないことがあって、そんな自分にちょっとムカついてしまう…なんてこともありました。
――オミくんを演じるにあたって、意識された点はどんな所でしょうか。
オミくんはエリーに対して、ツンデレなので、僕も普段からツンツンしてみました。この作品の三木康一郎監督がツンデレな方で。監督から色々盗んでお芝居に落とし込んでいました。
――胸キュンシーンが盛りだくさんな作品ですが、注目ポイントのひとつ、“ジャージキス”の撮影は、いかがでしたか?
演じるこちら側は、見せ方とかいろいろ考えることがあって、キュンキュンする暇はゼロでした(笑)。1日目のロケは、砂嵐で撮影が出来なくて。ジャージのチャックを開けた時に顔が見える具合を計算しなくてはいけなくて、何度も繰り返しました。本当に難しかったです。
――タイミングも計算しなくてはいけないですからね。
胸キュンシーンでは、「俺の彼女だよ」って言う台詞があって。僕、緊張したのか、台詞が吹っ飛んでしまったんです。思わず、「俺の……カ~ノジョ!」って小首をかしげて言ってしまって、本番中にみんな大爆笑してました! 次からのテイクは、笑いそうになってしまって、もう本当に地獄でした(笑)。
■理想の女性像は“相手の立場に立って物事を考えられる人”
――エリーみたいな妄想が大好きな女の子、宮世さんはどう思いますか?
エリーは“恋わずらいのエリー”の名前で、SNSでオミくんとの恋の妄想をつぶやいていて、そうやって本人が知らない所でやっているのが可愛いです。恥ずかしさから、好きバレしたくないという気持ちがかわいらしいですよね。
実際、そういう妄想好きな女の子っていると思うんですが、共感できる部分がたくさんあるんじゃないかなと思います。もし自分のことをSNSでつぶやかれたら…、妄想の内容にもよりますけど、うれしいです(笑)。
――オミくんは本当の自分を見てくれて、全部受け止めてくれるような人が好きですが、宮世さんの理想の女性像は?
僕は、相手の立場に立って物事を考えられる女性がすてきだなと思います。オミくんの理想の女性像もいいなと思いますけど、まだちょっと子供ですよね。エリーがクラスメイトの要くん(西村拓哉)と仲良く話している姿を見て、嫉妬しちゃったり。
――オミくんのようにウラオモテ王子ではないという宮世さんですが、オンオフの切り替えは、どのようにしていますか。
僕はオンオフの切り替えが苦手で、「あれもこれもやんなきゃ」って永遠に頭の中でループしてしまって、どうしようって悩んでいた時に、先輩から「自分の好きなことをしたらいいよ」って教えていただいて。それからはアニメを観たり、写真を撮ったり、好きなことを10分でもいいのでやるようにしています。
■20代は「自分のやりたいことを突き詰めてやってみたい」
――宮世さんは、1月22日で20歳を迎えられましたが、10代最後の制服になりましたね。どんなカッコいい人になりたいですか。
制服は、まだまだ行けるなと思っていて。20歳になっても、着たいですね。三木監督は、カッコいいとはなんぞやを追求されていて、「オミくんは等身大のイケメンであって欲しい」と言われたんです。自分なりに「カッコいい男ってどういう人だろう」って考えた結果、自分の我を出さず、相手の気持ちをくみ取ってあげられることなのかなと。
僕には年下の妹がいて、よくケンカするんです。「普通は、こうするじゃん」って言ったら、「普通って何!?」って言ってくるので、乙女心は難しいです(笑)。でも、カッコいい大人になるため、今後はケンカしないようにしたいです。
――20歳を迎えて、プライベートでやってみたいことはありますか。
今までやったことのないことをいろいろ経験して、その体験を通して表現力を磨いて、役にしっかり還元できたらと思います。
――20歳を記念する単独初ライブを東京国際フォーラムで開催するなど、音楽活動も精力的にされています。駆け引きをテーマにしたラブソング「Lightning」では、ハードなダンスチューンで色気たっぷりに歌う姿が大人っぽくて、新鮮に映りました。
10代では歌ってきていない雰囲気の楽曲も増えてきていて、僕のことを昔から知ってくれていた方にとっては、今までにない宮世も楽しんでもらえると思います。俳優業では、自分ではなく、役を演じていますが、音楽ではより自分が届けたいものを自分らしく表現していきたいです。
ニルヴァーナやレッド・ホット・チリ・ペッパーズ、ブランキ―ジェットシティ、浜田省吾さんなど、好きなアーティストの方はたくさんいて、影響を受けてきました。今後は、バラードも歌いたいですし、いろんな曲調や雰囲気の楽曲で僕のエンターテインメントを届けていきたいですね。ライブのステージも自分のやりたいことを突き詰めてやってみたいです。
■今後挑戦したい作品は“異世界転生もの”
――ちなみに尊敬される俳優さんとして、同じ事務所に所属している北村匠海さんの名前をよくあげていらっしゃいますが、どんな所をリスペクトされていますか。
匠海くんは、俳優活動だけでなく、音楽活動もどちらも活躍されているじゃないですか。自分も俳優と音楽、両方で活動しているので、匠海くんにいつか追いつけるように頑張りたいと、背中を見つめている先輩です。ずっとリスペクトしています。
――今作で念願のラブストーリーの主演が実現しましたが、今後やってみたい作品は?
コメディーをやりたいです! 原作があって癖が強いキャラクターの実写版を演じたいですね。異世界転生もので、実写化されていない作品があれば、ぜひチャレンジしたいです。
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