我的天呐
吗喽的命也是命
不仅要受我导的压迫
还要受我导带的本科生的气
研究牲是什么很jian的人吗
今年这个本科毕业生真牛
把我气的要鼠了
自己的毕业论文一点都不上心
我还要像个奴才请你做事
阶段①
来做过一次师弟的实验
也就待了三四个小时吧
好好教也不听
想让他动手试试
搞的一整个稀烂
我师弟只能重新自己干了一遍
阶段②
过了一两周想着再给他一次机会
发消息给他来做实验
他突然说自己要考研
当时已经九月了
之前也问过他 他说过不考
ok fine 不叫你做实验 我做完了你再取数据吧
阶段③
开题报告写的依托答辩
我尝试了一下修改 改了一版还是很差
直接把自己的开题报告甩给他抄了
结果真就自己不补充一点
抄的我导都发现了。。。
阶段④
本科生寒假回去的很早我能理解
所以我在他回去之前当面教他怎么取数据
毕竟这是他自己的毕业论文
教他取数据也是在跟他讲解他的毕业论文
吧啦吧啦讲了一个小时
他在旁边不吭声 也不做笔记
再三嘱咐他有不会的就问我 随便问
当时没发图片给他 因为我还没整理
后来开学前发给他一个编号的图
测图软件也发给他
发了一堆话再次嘱咐怎么测 不会就问我
圈完一张截图给我看 我好纠正错误
还发了手写笔记
结果好嘛
测一步问我一步
说自己区分不了这几种细胞
我解释一通之后直接说让我来测
我谢谢您
在我说了这么多 增加了这么多工作量之后
告诉我白干 哈哈
阶段④
发给他第一个文件并回答了他的问题后
他就没再给我发消息了
我以为他没干呢
结果一周之后发给我已经测了的表
我当时呆住
大哥 不是说好要截图吗
你这直接测完了我咋知道你测对没有
但是没事啊没事
我已经是个成熟的研究牲了
我知道你测的这些数据我也不会用
肯定会自己重测
然后我就发给他了第二个 并叮嘱他截图
好 这回总算听进去了
第二天就截图给我看了
好嘛 果然测错了
我就纠正了一下错误 但是还是觉得他居然上心了这么快
结果。。这之后过了一个月。。。
直到最近距离交初稿越来越近
突然找我
先把上次的数据发我了
接着立马问我初稿怎么写
哈哈 这下子想起还有我这么个工具人呢
阶段⑤
理直气壮找我要实验数据
我还有别的事要干 就没给他整理
他就天天催我
现在知道急了啊老弟
等我自己干完大部分有数据了
这几天要交稿了 你就知道伸手要了呗
但是我给他说了 先写前面综述
今天把数据整理好发给他了
有一个需要带公式计算的数据我还没算过
就把几篇文献和公式截图发给他
结果一点一点问
一会儿 怎么我算的这么大
一会儿 怎么我算的这么小
我还是忍着怒意回了
阶段⑥
很快不到一个小时
就把初稿发给我看了
我一看
史
开题报告写了改了
我的开题报告也发了
以前毕业生的论文也发了
抄都不抄
估计也没打开看过
摆上去的是
一些有点关系 但关系不大 不知道在哪里copy的东西
甚至可能是GPT写的
说是结果 结果就是把我整理的数据粘贴上去了
就一个表 也不知道用excel画个柱状图
我改了一半真的改不下去了
改的有点恶心了
这跟我重写有什么区别
我真的很克制了
把改过的发给他让他自己改去了
你可能会质疑我“研究生给本科生数据很正常啊,你怎么还让本科生干活啊?”
容我说道说道
1.我本科本校的,我们班同学基本都因为毕设自己进过实验室至少五天,直接给数据是很少很少的,就算毕设直接给,也基本是大二大三就已经做过其他实验的。
2.当时我自己也没有数据,甚至去年九月自己的实验还没开始做,没有数据可以提供给本科生。并且我怎么知道我的数据能不能用呢,谁也没法保证。
3.我导耳提面命好多次,要我们负起责任带好自己的本科生,催他们来做实验。还在学校规定的寒假放假当天和我们说,要我们监督本科生留下来,人家早就定好回去的票了,我算老几啊,还轮得到我说话呢。这表明她完全甩锅不想管,让我们几个研究生全权负责起本科生的毕业论文。(连任务书、开题报告上传这种事也是我登她的账号上传的)甚至在我当面告诉她本科生不听我说的 的时候,说我管理不到位,说我这么大个人了应该学会怎么让别人听进去我的话。我也就比他大两岁啊,他都不在乎自己的毕业,我在乎有什么用。
吗喽的命也是命
不仅要受我导的压迫
还要受我导带的本科生的气
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阶段④
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所以我在他回去之前当面教他怎么取数据
毕竟这是他自己的毕业论文
教他取数据也是在跟他讲解他的毕业论文
吧啦吧啦讲了一个小时
他在旁边不吭声 也不做笔记
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当时没发图片给他 因为我还没整理
后来开学前发给他一个编号的图
测图软件也发给他
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还发了手写笔记
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我解释一通之后直接说让我来测
我谢谢您
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告诉我白干 哈哈
阶段④
发给他第一个文件并回答了他的问题后
他就没再给我发消息了
我以为他没干呢
结果一周之后发给我已经测了的表
我当时呆住
大哥 不是说好要截图吗
你这直接测完了我咋知道你测对没有
但是没事啊没事
我已经是个成熟的研究牲了
我知道你测的这些数据我也不会用
肯定会自己重测
然后我就发给他了第二个 并叮嘱他截图
好 这回总算听进去了
第二天就截图给我看了
好嘛 果然测错了
我就纠正了一下错误 但是还是觉得他居然上心了这么快
结果。。这之后过了一个月。。。
直到最近距离交初稿越来越近
突然找我
先把上次的数据发我了
接着立马问我初稿怎么写
哈哈 这下子想起还有我这么个工具人呢
阶段⑤
理直气壮找我要实验数据
我还有别的事要干 就没给他整理
他就天天催我
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有一个需要带公式计算的数据我还没算过
就把几篇文献和公式截图发给他
结果一点一点问
一会儿 怎么我算的这么大
一会儿 怎么我算的这么小
我还是忍着怒意回了
阶段⑥
很快不到一个小时
就把初稿发给我看了
我一看
史
开题报告写了改了
我的开题报告也发了
以前毕业生的论文也发了
抄都不抄
估计也没打开看过
摆上去的是
一些有点关系 但关系不大 不知道在哪里copy的东西
甚至可能是GPT写的
说是结果 结果就是把我整理的数据粘贴上去了
就一个表 也不知道用excel画个柱状图
我改了一半真的改不下去了
改的有点恶心了
这跟我重写有什么区别
我真的很克制了
把改过的发给他让他自己改去了
你可能会质疑我“研究生给本科生数据很正常啊,你怎么还让本科生干活啊?”
容我说道说道
1.我本科本校的,我们班同学基本都因为毕设自己进过实验室至少五天,直接给数据是很少很少的,就算毕设直接给,也基本是大二大三就已经做过其他实验的。
2.当时我自己也没有数据,甚至去年九月自己的实验还没开始做,没有数据可以提供给本科生。并且我怎么知道我的数据能不能用呢,谁也没法保证。
3.我导耳提面命好多次,要我们负起责任带好自己的本科生,催他们来做实验。还在学校规定的寒假放假当天和我们说,要我们监督本科生留下来,人家早就定好回去的票了,我算老几啊,还轮得到我说话呢。这表明她完全甩锅不想管,让我们几个研究生全权负责起本科生的毕业论文。(连任务书、开题报告上传这种事也是我登她的账号上传的)甚至在我当面告诉她本科生不听我说的 的时候,说我管理不到位,说我这么大个人了应该学会怎么让别人听进去我的话。我也就比他大两岁啊,他都不在乎自己的毕业,我在乎有什么用。
鳥羽・伏見の戦い
「鳥羽・伏見の戦い」は、旧幕府軍と新政府軍との戦い「戊辰戦争」(ぼしんせんそう)の初戦です。現在の京都市南区・伏見区にあたる、山城国 鳥羽・伏見で1868年1月27日(慶応4年1月3日)に起こったこの戦いから1年4ヵ月もの間、日本の内乱である戊辰戦争は続きました。
大政奉還による江戸幕府の終わり
長い間、「鎖国」(さこく)として外国との交流・貿易を禁止してきた日本ですが、1853年(嘉永6年)、米国のペリー率いる黒船来航により、「開国」を迫られることに。
日本国内では、外国を撃退・排除しようとする「攘夷」(じょうい)と開国とで考えが分かれる他、幕府ではなく天皇に忠義を尽くす「勤皇」(きんのう)、幕府を排除する「倒幕」(とうばく)、幕府を支持する「佐幕」(さばく)など様々な思想が生まれ、不安定な情勢となってしまいます。
「徳川慶喜」(とくがわよしのぶ)が第15代将軍となった1866年(慶応2年12月5日)は、倒幕思想が広まり、幕府の弱体化が加速している時期でした。薩摩藩・長州藩が中心となって武力による倒幕が推し進められるような状況で、慶喜は土佐藩からある提案を受けます。将軍が自ら政権を天皇に返上するという「大政奉還」。慶喜はこの提案を受け、1867年(慶応3年12月9日)、260年以上続いた江戸幕府に終止符が打たれました。
なお、形式的に政権を返上した慶喜ですが、実質的には「朝廷」(天皇)から委任される形で政権を握り続けることになります。もちろん、倒幕を目指していた薩摩藩・長州藩はこの状況に納得ができません。また、佐幕派の会津藩・桑名藩・紀州藩からも政権を返上したことへの反発が強まり、慶喜が望んでいた平和的解決は難しい状況に陥ってしまいました。
西郷隆盛率いる薩摩藩による挑発
あくまでも倒幕を目指す薩摩藩の「西郷隆盛」(さいごうたかもり)は、浪人を集め、江戸で強盗や略奪、殺傷を繰り返します。
現在でいうテロ攻撃であり、被害は民衆にも及びました。これは幕府(旧幕府)への挑発行為であり、最終的な狙いは倒幕。幕府側は挑発行為に乗ってしまい、1868年1月19日(慶応3年12月25日)に江戸の薩摩藩邸を襲撃します。
この襲撃を発端として、薩摩藩と旧幕府軍の戦いが始まるのです。
旧幕府軍・慶喜のターゲットは薩摩藩
周囲の「討薩」(薩摩藩を倒す)の声に押された慶喜は、1868年(慶応4年元旦)に、「討薩の表」を出して薩摩藩への攻撃を宣言します。
京都の封鎖を目的に掲げて大阪から京都に兵を進める旧幕府軍。3日午前、京都南部の鳥羽街道で薩摩藩と相対することになります。旧幕府軍は通行を求めますが、薩摩藩は拒否し、朝廷からの許可が出るまで待つように返答します。夕方を過ぎた頃、交渉が進展しないことに腹を立てた旧幕府軍が強引に前進した直後、薩摩藩が大砲・銃で一斉に攻撃を開始。不意の攻撃に驚いた旧幕府軍は不利な戦いを強いられ敗走します。
なお、伏見においても、旧幕府軍と薩摩藩・長州藩による同様の口論が行なわれていましたが、鳥羽方面からの銃声を皮切りに開戦。旧幕府軍は伏見奉行所を本陣として戦いましたが、弾薬庫に砲弾を打ち込まれて奉行所が炎上、ここでも旧幕府軍は撤退を強いられます。
錦の御旗の登場で旧幕府軍は朝廷(天皇)と戦うことに
開戦翌日の1月4日、旧幕府軍は驚きの光景を目にします。敵陣に掲げられた「錦の御旗」。この旗は朝廷(天皇)を意味し、これから戦う敵である薩摩藩・長州藩の軍が、正式な朝廷の軍と認められたことが分かったのです。
天皇の敵となることは、旧幕府軍の武士も考えていなかったのでしょう。一気に士気が下がっただけでなく、これまで旧幕府軍の味方をしていた各藩においても朝廷と戦うことに消極的となり、旧幕府軍は窮地に立たされます。
総大将 慶喜の逃亡、旧幕府軍の大敗
総大将を失った旧幕府軍は、新たに新政府軍に加わった各藩からの攻撃も受け、敗走。1月3日から続いた鳥羽・伏見の戦いは、1月6日に旧幕府軍の大敗で終わりました。
旧幕府軍1万5千、新政府軍5千、なぜ旧幕府軍が負けたのか
鳥羽・伏見の戦いにおける戦力は、旧幕府軍1万5千、薩摩藩・長州藩率いる新政府軍5千と言われています。3倍もの兵力を誇っていた旧幕府軍は、なぜ敗北してしまったのでしょうか。研究者によって見解は様々ですが、主に語られている敗北理由を紹介します。
装備の差
新政府軍は、幕府との戦いに備えて最新兵器を確保していました。最新型の西洋銃・大砲を装備して、相手を迎え撃つ準備ができていたのです。
一方、幕府陸軍、新撰組、会津藩、桑名藩で構成されていた旧幕府軍のうち、最新型の西洋銃を装備していたのは幕府陸軍のみでした。幕府陸軍は6千名配備されていたそうですが、装備に差がある軍隊では、統率が難しかったと想定されます。
天下の新撰組でも、最新兵器の前では十分な力を発揮できなかったのでしょう。この戦いによって、隊士の3分の1が犠牲になったと言われています。なお、このとき新撰組局長「近藤勇」が、怪我の療養中で指揮を執れない状況だったことも、少なからず影響があったかもしれません。
鳥羽・伏見の戦いによる戦没者数は、新政府軍110名、旧幕府軍280名。この数からも旧幕府軍の犠牲の大きさがうかがい知れます。
戦意の差
また、兵士の士気にも大きな差があったと想定されます。旧幕府軍は、薩摩藩に挑発されて仕方なく戦うことになったため、急遽指名された指揮官で兵士も寄せ集め。討薩の表を出したものの、実際に戦う気はなかったという説もあるほどです。
大阪から京都に兵を進めていた旧幕府軍は、不意をつかれる形で薩摩藩に足止めされました。このとき、まだ戦いを想定していなかった旧幕府軍は、銃に弾丸を込めていなかったそうです。
一方の新政府軍は、倒幕を掲げて尽力してきた薩摩藩・長州藩の志士。ついに絶好のチャンスが巡ってきた状況で、闘志に燃えています。旧幕府軍を足止めして口論を続けていたときも、いつでもすぐに戦闘を開始できるよう、銃を構えていました。戦う気のない相手に一斉攻撃をしかけたことで、兵力の勝る旧幕府軍に対して有利な戦いができたのです。
京都という場所
京都の町並みと言えば、碁盤の目の狭い路地が特徴。現在は、風情のある美しい京都の町並みですが、戦いには不向きな場所でした。狭い道では大軍を一気に進めることはできません。旧幕府軍は「数の利」を活かすことができず、命令も徹底されずに、それぞれの兵士が勝手に戦うことになってしまったのです。
新政府軍の場合、敵から見えない路地に小銃部隊をしのばせるなど、この町並みをうまく利用して戦いました。新政府軍は京都の街をよく知っていたため、その「地の利」が数の利に勝ったのです。
新政府軍の妙案「錦の御旗」
新政府軍の士気を高めると同時に旧幕府軍に大きな打撃を与えたのが、天皇の象徴である「錦の御旗」でした。
この旗は、新政府軍と親交のあった公家「岩倉具視」(いわくらともみ)の指示で秘密裏に作られた物で、天皇の了承なく勝手に制作された物。実際の錦の御旗は何百年も使用されていなかったため、本物を見たことのある人間は存在せず、勝手に制作された物かどうかも分からない状況だったのです。
なお、錦の御旗が掲げられたのは、正式に天皇に認められ、新政府軍が朝廷の軍となった直後でした。新政府軍の下準備の良さが功を奏したのです。
慶喜による決断
鳥羽・伏見の戦いは、慶喜が発した「討薩の表」を契機に始まり、慶喜の逃亡で終わった戦いとも言えます。慶喜は結局、体調不良を理由に出陣は一度もせず、大坂城から動きませんでした。戦う気はあったのか、どうして逃げ出してしまったのか、慶喜の真意は分かりません。ただ、慶喜は「尊王」思想の強い水戸藩出身で、母親は皇族でした。大政奉還を行なったのも尊王思想あってのことでしょう。錦の御旗に向かって攻撃することは、信念に反していたのかもしれません。
また、慶喜は「徳川家康の再来」と称されるほど、切れ者だったと言われています。まだ見ぬ未来の日本を思って、最良と思える決断をしたのかもしれません。
鳥羽・伏見の戦いのあと、1868年4月11日(慶応4年5月3日)には、一切の抵抗なく江戸城を新政府軍に明け渡し、江戸を戦火から守りました。この「江戸城の無血開城」は、幕府側の「勝海舟」と新政府側の「西郷隆盛」による功績とされていますが、慶喜の決意がなければ、この平和的解決も成し遂げられなかったのです。
「鳥羽・伏見の戦い」は、旧幕府軍と新政府軍との戦い「戊辰戦争」(ぼしんせんそう)の初戦です。現在の京都市南区・伏見区にあたる、山城国 鳥羽・伏見で1868年1月27日(慶応4年1月3日)に起こったこの戦いから1年4ヵ月もの間、日本の内乱である戊辰戦争は続きました。
大政奉還による江戸幕府の終わり
長い間、「鎖国」(さこく)として外国との交流・貿易を禁止してきた日本ですが、1853年(嘉永6年)、米国のペリー率いる黒船来航により、「開国」を迫られることに。
日本国内では、外国を撃退・排除しようとする「攘夷」(じょうい)と開国とで考えが分かれる他、幕府ではなく天皇に忠義を尽くす「勤皇」(きんのう)、幕府を排除する「倒幕」(とうばく)、幕府を支持する「佐幕」(さばく)など様々な思想が生まれ、不安定な情勢となってしまいます。
「徳川慶喜」(とくがわよしのぶ)が第15代将軍となった1866年(慶応2年12月5日)は、倒幕思想が広まり、幕府の弱体化が加速している時期でした。薩摩藩・長州藩が中心となって武力による倒幕が推し進められるような状況で、慶喜は土佐藩からある提案を受けます。将軍が自ら政権を天皇に返上するという「大政奉還」。慶喜はこの提案を受け、1867年(慶応3年12月9日)、260年以上続いた江戸幕府に終止符が打たれました。
なお、形式的に政権を返上した慶喜ですが、実質的には「朝廷」(天皇)から委任される形で政権を握り続けることになります。もちろん、倒幕を目指していた薩摩藩・長州藩はこの状況に納得ができません。また、佐幕派の会津藩・桑名藩・紀州藩からも政権を返上したことへの反発が強まり、慶喜が望んでいた平和的解決は難しい状況に陥ってしまいました。
西郷隆盛率いる薩摩藩による挑発
あくまでも倒幕を目指す薩摩藩の「西郷隆盛」(さいごうたかもり)は、浪人を集め、江戸で強盗や略奪、殺傷を繰り返します。
現在でいうテロ攻撃であり、被害は民衆にも及びました。これは幕府(旧幕府)への挑発行為であり、最終的な狙いは倒幕。幕府側は挑発行為に乗ってしまい、1868年1月19日(慶応3年12月25日)に江戸の薩摩藩邸を襲撃します。
この襲撃を発端として、薩摩藩と旧幕府軍の戦いが始まるのです。
旧幕府軍・慶喜のターゲットは薩摩藩
周囲の「討薩」(薩摩藩を倒す)の声に押された慶喜は、1868年(慶応4年元旦)に、「討薩の表」を出して薩摩藩への攻撃を宣言します。
京都の封鎖を目的に掲げて大阪から京都に兵を進める旧幕府軍。3日午前、京都南部の鳥羽街道で薩摩藩と相対することになります。旧幕府軍は通行を求めますが、薩摩藩は拒否し、朝廷からの許可が出るまで待つように返答します。夕方を過ぎた頃、交渉が進展しないことに腹を立てた旧幕府軍が強引に前進した直後、薩摩藩が大砲・銃で一斉に攻撃を開始。不意の攻撃に驚いた旧幕府軍は不利な戦いを強いられ敗走します。
なお、伏見においても、旧幕府軍と薩摩藩・長州藩による同様の口論が行なわれていましたが、鳥羽方面からの銃声を皮切りに開戦。旧幕府軍は伏見奉行所を本陣として戦いましたが、弾薬庫に砲弾を打ち込まれて奉行所が炎上、ここでも旧幕府軍は撤退を強いられます。
錦の御旗の登場で旧幕府軍は朝廷(天皇)と戦うことに
開戦翌日の1月4日、旧幕府軍は驚きの光景を目にします。敵陣に掲げられた「錦の御旗」。この旗は朝廷(天皇)を意味し、これから戦う敵である薩摩藩・長州藩の軍が、正式な朝廷の軍と認められたことが分かったのです。
天皇の敵となることは、旧幕府軍の武士も考えていなかったのでしょう。一気に士気が下がっただけでなく、これまで旧幕府軍の味方をしていた各藩においても朝廷と戦うことに消極的となり、旧幕府軍は窮地に立たされます。
総大将 慶喜の逃亡、旧幕府軍の大敗
総大将を失った旧幕府軍は、新たに新政府軍に加わった各藩からの攻撃も受け、敗走。1月3日から続いた鳥羽・伏見の戦いは、1月6日に旧幕府軍の大敗で終わりました。
旧幕府軍1万5千、新政府軍5千、なぜ旧幕府軍が負けたのか
鳥羽・伏見の戦いにおける戦力は、旧幕府軍1万5千、薩摩藩・長州藩率いる新政府軍5千と言われています。3倍もの兵力を誇っていた旧幕府軍は、なぜ敗北してしまったのでしょうか。研究者によって見解は様々ですが、主に語られている敗北理由を紹介します。
装備の差
新政府軍は、幕府との戦いに備えて最新兵器を確保していました。最新型の西洋銃・大砲を装備して、相手を迎え撃つ準備ができていたのです。
一方、幕府陸軍、新撰組、会津藩、桑名藩で構成されていた旧幕府軍のうち、最新型の西洋銃を装備していたのは幕府陸軍のみでした。幕府陸軍は6千名配備されていたそうですが、装備に差がある軍隊では、統率が難しかったと想定されます。
天下の新撰組でも、最新兵器の前では十分な力を発揮できなかったのでしょう。この戦いによって、隊士の3分の1が犠牲になったと言われています。なお、このとき新撰組局長「近藤勇」が、怪我の療養中で指揮を執れない状況だったことも、少なからず影響があったかもしれません。
鳥羽・伏見の戦いによる戦没者数は、新政府軍110名、旧幕府軍280名。この数からも旧幕府軍の犠牲の大きさがうかがい知れます。
戦意の差
また、兵士の士気にも大きな差があったと想定されます。旧幕府軍は、薩摩藩に挑発されて仕方なく戦うことになったため、急遽指名された指揮官で兵士も寄せ集め。討薩の表を出したものの、実際に戦う気はなかったという説もあるほどです。
大阪から京都に兵を進めていた旧幕府軍は、不意をつかれる形で薩摩藩に足止めされました。このとき、まだ戦いを想定していなかった旧幕府軍は、銃に弾丸を込めていなかったそうです。
一方の新政府軍は、倒幕を掲げて尽力してきた薩摩藩・長州藩の志士。ついに絶好のチャンスが巡ってきた状況で、闘志に燃えています。旧幕府軍を足止めして口論を続けていたときも、いつでもすぐに戦闘を開始できるよう、銃を構えていました。戦う気のない相手に一斉攻撃をしかけたことで、兵力の勝る旧幕府軍に対して有利な戦いができたのです。
京都という場所
京都の町並みと言えば、碁盤の目の狭い路地が特徴。現在は、風情のある美しい京都の町並みですが、戦いには不向きな場所でした。狭い道では大軍を一気に進めることはできません。旧幕府軍は「数の利」を活かすことができず、命令も徹底されずに、それぞれの兵士が勝手に戦うことになってしまったのです。
新政府軍の場合、敵から見えない路地に小銃部隊をしのばせるなど、この町並みをうまく利用して戦いました。新政府軍は京都の街をよく知っていたため、その「地の利」が数の利に勝ったのです。
新政府軍の妙案「錦の御旗」
新政府軍の士気を高めると同時に旧幕府軍に大きな打撃を与えたのが、天皇の象徴である「錦の御旗」でした。
この旗は、新政府軍と親交のあった公家「岩倉具視」(いわくらともみ)の指示で秘密裏に作られた物で、天皇の了承なく勝手に制作された物。実際の錦の御旗は何百年も使用されていなかったため、本物を見たことのある人間は存在せず、勝手に制作された物かどうかも分からない状況だったのです。
なお、錦の御旗が掲げられたのは、正式に天皇に認められ、新政府軍が朝廷の軍となった直後でした。新政府軍の下準備の良さが功を奏したのです。
慶喜による決断
鳥羽・伏見の戦いは、慶喜が発した「討薩の表」を契機に始まり、慶喜の逃亡で終わった戦いとも言えます。慶喜は結局、体調不良を理由に出陣は一度もせず、大坂城から動きませんでした。戦う気はあったのか、どうして逃げ出してしまったのか、慶喜の真意は分かりません。ただ、慶喜は「尊王」思想の強い水戸藩出身で、母親は皇族でした。大政奉還を行なったのも尊王思想あってのことでしょう。錦の御旗に向かって攻撃することは、信念に反していたのかもしれません。
また、慶喜は「徳川家康の再来」と称されるほど、切れ者だったと言われています。まだ見ぬ未来の日本を思って、最良と思える決断をしたのかもしれません。
鳥羽・伏見の戦いのあと、1868年4月11日(慶応4年5月3日)には、一切の抵抗なく江戸城を新政府軍に明け渡し、江戸を戦火から守りました。この「江戸城の無血開城」は、幕府側の「勝海舟」と新政府側の「西郷隆盛」による功績とされていますが、慶喜の決意がなければ、この平和的解決も成し遂げられなかったのです。
医生说:最近是不是经常生气
我他喵喵的就没有一天能不生气
这过的什么日子
两周休一天就算了
现在还装打卡机每周末都要打卡
早上八点半到十二点
下午两点半到六点
晚上不统计(但他喵喵的跑晚上不可能停实验因为做不完,基本大家天天晚上都在)
天天谈不负韶华,为团队奉献
怎么不谈一下我们研究牲也要有正常的生活呢
你喜欢当奴隶主没人管
但能不能不要到处以施舍的语气去这这那那
一个月给四百还要别人拿命做
我迟早把资环楼给炸了
受不了一点
我他喵喵的就没有一天能不生气
这过的什么日子
两周休一天就算了
现在还装打卡机每周末都要打卡
早上八点半到十二点
下午两点半到六点
晚上不统计(但他喵喵的跑晚上不可能停实验因为做不完,基本大家天天晚上都在)
天天谈不负韶华,为团队奉献
怎么不谈一下我们研究牲也要有正常的生活呢
你喜欢当奴隶主没人管
但能不能不要到处以施舍的语气去这这那那
一个月给四百还要别人拿命做
我迟早把资环楼给炸了
受不了一点
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