据东京官方统计,去年约有近63万外国人常住在东京,其中,中国人超过25万。
东京市政的调查显示,过去五年,丰洲塔楼所在的江东区,拥房的中国人增加了14.8%。奢华住宅集中的中央区、品川区和港区内,去年拥房的中国居民增加了20%。
除了投资收益,不少来自中国的高净值人士也希望购买房地产自住,拿到居住签证。
日本不是移民国家,但如果投资500万日元资金在日本注册实体公司,同时投资房地产,用房屋租金作为流水,就可以满足经营签证的条件。家长持经营签证的子女在义务教育阶段,可直接申请就读日本国立、公立和私立的小学及初中。
我的一个朋友早在十年前就开始在东京和大阪投资买房了,他给我算过日本的租金回报率能达到8%左右。
东京市政的调查显示,过去五年,丰洲塔楼所在的江东区,拥房的中国人增加了14.8%。奢华住宅集中的中央区、品川区和港区内,去年拥房的中国居民增加了20%。
除了投资收益,不少来自中国的高净值人士也希望购买房地产自住,拿到居住签证。
日本不是移民国家,但如果投资500万日元资金在日本注册实体公司,同时投资房地产,用房屋租金作为流水,就可以满足经营签证的条件。家长持经营签证的子女在义务教育阶段,可直接申请就读日本国立、公立和私立的小学及初中。
我的一个朋友早在十年前就开始在东京和大阪投资买房了,他给我算过日本的租金回报率能达到8%左右。
#每日一房##横浜#
横滨市作为日本首都圈南部毋庸置疑的核心,在常住人口和GDP方面,常年跟大阪市和名古屋市并驾齐驱,是除了东京23区外,日本的第二梯队领跑城市。
横滨市中心(中区 西区 南区)的房价,远远超过东京23个区中大部分的区。尤其是在盖满了高层塔楼的 横滨站-马车道-港未来区域,哪怕是90年代的塔楼,也几乎找不到100w日元/平米以内的楼盘了,近几年的新房和准新房,中高楼层来到200w日元/平米,也一点不稀奇。
今天这套房子,是2019年由三井不动产开发的塔楼。入口玄关和公共区域带着三井一贯的富丽堂皇设计,功能区也是配满:楼下绿地,底商超市,酒廊,会客厅,茶室,健身房,业主旅馆,儿童乐园,楼顶花园露台...(图5-图12)塔楼这些标配都基本配齐。横滨的塔楼盖的不如湾岸地区密,所以视野看出去,无论是看城区还是看海的方向,遮挡都很少。
这套65.32套内面积的公寓,两居室,带地暖,西南朝向,晴天时能望得到富士山,售价1.248亿日元。
横滨市作为日本首都圈南部毋庸置疑的核心,在常住人口和GDP方面,常年跟大阪市和名古屋市并驾齐驱,是除了东京23区外,日本的第二梯队领跑城市。
横滨市中心(中区 西区 南区)的房价,远远超过东京23个区中大部分的区。尤其是在盖满了高层塔楼的 横滨站-马车道-港未来区域,哪怕是90年代的塔楼,也几乎找不到100w日元/平米以内的楼盘了,近几年的新房和准新房,中高楼层来到200w日元/平米,也一点不稀奇。
今天这套房子,是2019年由三井不动产开发的塔楼。入口玄关和公共区域带着三井一贯的富丽堂皇设计,功能区也是配满:楼下绿地,底商超市,酒廊,会客厅,茶室,健身房,业主旅馆,儿童乐园,楼顶花园露台...(图5-图12)塔楼这些标配都基本配齐。横滨的塔楼盖的不如湾岸地区密,所以视野看出去,无论是看城区还是看海的方向,遮挡都很少。
这套65.32套内面积的公寓,两居室,带地暖,西南朝向,晴天时能望得到富士山,售价1.248亿日元。
まつ(芳春院)
「前田利家」の正室である「芳春院」(ほうしゅんいん)通称「まつ」は、前田利家を支えることで、前田家を豊臣政権の重要な地位に導いた女性。前田利家の没後は「徳川家康」から謀反の疑いをかけられ、これを晴らすために、天下にかかわる重大な決断をし、加賀120万石の礎を築きました。ここでは、豊臣政権内でのまつの待遇や逸話、前田利家が亡くなったあとに下した、まつの決断などについてご紹介します。
まつと夫・前田利家
従兄弟・前田利家に嫁ぐ
父が亡くなると、まつの母「竹野氏」は、尾張国(おわりのくに:現在の愛知県西部)の守護「斯波家」(しばけ)の家臣「高畠直吉」(たかはたさだよし)と結婚したため、母の妹「長齢院」(ちょうれいいん)が嫁いでいた「荒子城」(あらこじょう:現在の愛知県名古屋市中川区)の城主「前田利昌」(まえだとしまさ)のもとで育てられました。
まつは12歳になると、前田利昌の四男「前田利家」と結婚。
なお、まつの母と前田利家の母は姉妹であったため、まつと前田利家は従兄妹同士で夫婦となったのです。
しかし、その翌年に前田利家は、主君「織田信長」が寵愛していた同朋衆(どうぼうしゅう)を斬ったことで出仕停止の処分を受け、浪人となってしまいました。
夫・前田利家の出世とその活躍
前田利家は織田信長の許しを得ないまま、1560年(永禄3年)の「桶狭間の戦い」(おけはざまのたたかい)に参加。
敵の首を獲りましたが、織田信長に許して貰えなかったため、1561年(永禄4年)にも無断で「森部の戦い」(もりべのたたかい)に出陣します。
そして敵方の「足立六兵衛」(あだちろくべえ)を討ち取り、出仕停止処分がようやく取り消され、所領の加増を受けたのです。
前田利昌が死去すると、荒子城は当初、前田利家の兄「前田利久」(まえだとしひさ)が継いでいましたが、1569年(永禄12年)に織田信長の命によって、その武功が評価されていた前田利家が入城。
これ以降、前田利家は織田信長に従軍し「姉川の戦い」や「長篠の戦い」(ながしののたたかい)などに参加。「越前府中城」(えちぜんふちゅうじょう:現在の福井県越前市)3万3,000石を賜り、大名となりました。
結婚して1年後、前田利家とまつの間には、長女「幸姫」(こうひめ)が誕生し、そのあとも次々と授かり、2男9女もの子どもを儲けたのです。そして前田利家とまつは、家族ぐるみで交流があり、子どものいなかった「豊臣秀吉」と「ねね」のちの「高台院」(こうだいいん)夫妻に、四女「豪姫」(ごうひめ)を養女として差し出します。
また、豊臣秀吉の母「大政所」(おおまんどころ)とも、親しい付き合いがあったと言われています。そののち、三女の「摩阿姫」(まあひめ)が豊臣秀吉の側室となり、前田家と豊臣家はより一層強い絆で結ばれたのです。
前田家の危機
前田利家は1581年(天正9年)、能登国(のとのくに:現在の石川県北部)23万石を織田家より与えられ、国持大名になりました。
ところが、1582年(天正10年)に「明智光秀」が起こした「本能寺の変」により、織田信長が自刃させられたという知らせが届きます。そのあと、本能寺の変から10日あまりの間に、豊臣秀吉が明智光秀を討ち、織田信長の後継者として頭角を現しました。
さらには、織田家を継いでいた「織田信忠」(おだのぶただ)も明智光秀に殺害されていたため、同家の後継者問題が浮上したのです。
これを解決すべく行なわれた「清洲会議」(きよすかいぎ)では、織田家の筆頭家老「柴田勝家」は、織田信長の次男「織田信雄」(おだのぶかつ)を推挙しますが、豊臣秀吉は織田信忠の嫡男「三法師」(さんぼうし)を後押ししたのです。
その結果、織田家の跡目は三法師が継ぐことになりましたが、まだ幼かったため、その後見人を織田信長の三男「織田信孝」(おだのぶたか)が務めることに決まりました。これにより、豊臣秀吉と柴田勝家の対立が決定的になったのです。
しかしこの頃の前田利家は、与力(よりき)として柴田勝家に従っていたため、親友の豊臣秀吉と戦わなければならなくなりました。
そして1583年(天正11年)、豊臣軍と柴田軍の間で「賤ヶ岳の戦い」(しずがたけのたたかい)が勃発。同合戦において前田利家は、5,000の兵を連れて出陣しましたが戦わずに退却。これが決定打となったことで柴田軍は総崩れとなり、撤退することになったのです。
豊臣政権下での前田利家とまつ
賤ヶ岳の戦い後、前田利家は「加賀国」(かがのくに:現在の石川県南部)内で2郡を加増され、嫡男「前田利長」(まえだとしなが)も、同国の「松任城」(まっとうじょう:現在の石川県白山市)4万石を与えられました。そして、前田利家は豊臣政権下において、ますます重要な存在になっていきます。
例えば朝鮮出兵の際に、豊臣秀吉が母・大政所の危篤の知らせを受け、京都に戻っていたとき、代わりに政務を担っていたのは「徳川家康」と前田利家でした。これに加えて前田利家は官位も上がり、「大納言」(だいなごん)に任ぜられたのです。
豊臣政権における前田利家の地位が上がっていくにしたがって、この他の諸大名も前田利家を頼るようになります。1595年(文禄4年)に「豊臣秀次」(とよとみひでつぐ)の切腹事件のときには「浅野幸長」(あさのよしなが)が連座で配流されましたが、前田利家の取り成しにより間もなく許されたのです。
そして前田利家は、豊臣秀吉に嫡子「豊臣秀頼」(とよとみひでより)が誕生した際に、豊臣秀頼の「傅役」(もりやく/ふやく:貴人の世継ぎの世話をする教育係)となり、「五大老」にも任命されました。
豊臣政権での前田利家の地位が上がったこと、そして、ねねとまつが親密な関係を築いていたことなどから、まつ自身も別格の待遇を受けるようになります。それがよく分かるのが、1598年(慶長3年)に豊臣秀吉が開催した「醍醐の花見」(だいごのはなみ)での逸話です。
この催しに豊臣秀吉は、徳川家康など諸大名の妻や、女性の使用人などを招待。
そのなかには、豊臣秀頼やその生母の「淀殿」(よどどの)、豊臣秀吉の正室・ねねもいました。
しかし、その宴席の場での盃(さかずき)を受ける順番を巡り、名門・京極家出身の「松の丸殿」(まつのまるどの)と淀殿が揉めたことが伝えられています。
そのとき、ねねとまつが仲裁に入り、その場を丸く収めたことにより、まつの名前は世の中により広く知られるところとなりました。
前田利家の没後、まつが下した決断とは
1598年(慶長3年)に豊臣秀吉が亡くなると、その遺言通り「大坂城」(現在の大阪城)に前田利家が入り、「伏見城」(ふしみじょう:現在の京都府京都市伏見区)には徳川家康が入りましたが、このとき徳川家康は、天下を手中に収めるため、すでに動き出していたのです。
まず、徳川家康は豊臣秀吉が禁じていた大名間の婚姻を進めていきます。このとき、前田利家そして徳川家康それぞれの屋敷に多くの大名が集まり、大きな騒動に発展。豊臣秀吉に仕えていた「加藤清正」や「細川忠興」(ほそかわただおき)などが前田利家を慕い、その屋敷に集まったと言われています。
結局、前田利家は徳川家康と誓紙(せいし:誓いの言葉が記された紙)を交わし穏便に済ませましたが、世の中では次の天下人は前田利家か、それとも徳川家康になるのかを窺う雰囲気が漂っていました。
1599年(慶長4年)に前田利家が亡くなると、まつはその菩提(ぼだい)を弔うために出家して「芳春院」(ほうしゅんいん)と号します。そんななか、前田家に謀反の疑いがあるとして、徳川家康が加賀征伐を計画。
前田利長は、金沢で迎え撃とうと交戦を主張しましたが、まつはこれを拒否し、疑いを晴らすために自分が人質となって江戸に行くことを決意しました。これがのちに、江戸幕府で大名の妻子に江戸常住を義務付ける最初の例となったのです。
このまつの決断により、徳川家康の天下人への流れが一気に加速。前田利家が死去したと言っても、前田利長は父の跡を継ぎ徳川家康と同じく、五大老のひとりになっていました。徳川家に唯一対抗できると目されていた前田家が徳川家に下ったことで、両者の天下争いは徳川家康に軍配が上がったのです。
「前田利家」の正室である「芳春院」(ほうしゅんいん)通称「まつ」は、前田利家を支えることで、前田家を豊臣政権の重要な地位に導いた女性。前田利家の没後は「徳川家康」から謀反の疑いをかけられ、これを晴らすために、天下にかかわる重大な決断をし、加賀120万石の礎を築きました。ここでは、豊臣政権内でのまつの待遇や逸話、前田利家が亡くなったあとに下した、まつの決断などについてご紹介します。
まつと夫・前田利家
従兄弟・前田利家に嫁ぐ
父が亡くなると、まつの母「竹野氏」は、尾張国(おわりのくに:現在の愛知県西部)の守護「斯波家」(しばけ)の家臣「高畠直吉」(たかはたさだよし)と結婚したため、母の妹「長齢院」(ちょうれいいん)が嫁いでいた「荒子城」(あらこじょう:現在の愛知県名古屋市中川区)の城主「前田利昌」(まえだとしまさ)のもとで育てられました。
まつは12歳になると、前田利昌の四男「前田利家」と結婚。
なお、まつの母と前田利家の母は姉妹であったため、まつと前田利家は従兄妹同士で夫婦となったのです。
しかし、その翌年に前田利家は、主君「織田信長」が寵愛していた同朋衆(どうぼうしゅう)を斬ったことで出仕停止の処分を受け、浪人となってしまいました。
夫・前田利家の出世とその活躍
前田利家は織田信長の許しを得ないまま、1560年(永禄3年)の「桶狭間の戦い」(おけはざまのたたかい)に参加。
敵の首を獲りましたが、織田信長に許して貰えなかったため、1561年(永禄4年)にも無断で「森部の戦い」(もりべのたたかい)に出陣します。
そして敵方の「足立六兵衛」(あだちろくべえ)を討ち取り、出仕停止処分がようやく取り消され、所領の加増を受けたのです。
前田利昌が死去すると、荒子城は当初、前田利家の兄「前田利久」(まえだとしひさ)が継いでいましたが、1569年(永禄12年)に織田信長の命によって、その武功が評価されていた前田利家が入城。
これ以降、前田利家は織田信長に従軍し「姉川の戦い」や「長篠の戦い」(ながしののたたかい)などに参加。「越前府中城」(えちぜんふちゅうじょう:現在の福井県越前市)3万3,000石を賜り、大名となりました。
結婚して1年後、前田利家とまつの間には、長女「幸姫」(こうひめ)が誕生し、そのあとも次々と授かり、2男9女もの子どもを儲けたのです。そして前田利家とまつは、家族ぐるみで交流があり、子どものいなかった「豊臣秀吉」と「ねね」のちの「高台院」(こうだいいん)夫妻に、四女「豪姫」(ごうひめ)を養女として差し出します。
また、豊臣秀吉の母「大政所」(おおまんどころ)とも、親しい付き合いがあったと言われています。そののち、三女の「摩阿姫」(まあひめ)が豊臣秀吉の側室となり、前田家と豊臣家はより一層強い絆で結ばれたのです。
前田家の危機
前田利家は1581年(天正9年)、能登国(のとのくに:現在の石川県北部)23万石を織田家より与えられ、国持大名になりました。
ところが、1582年(天正10年)に「明智光秀」が起こした「本能寺の変」により、織田信長が自刃させられたという知らせが届きます。そのあと、本能寺の変から10日あまりの間に、豊臣秀吉が明智光秀を討ち、織田信長の後継者として頭角を現しました。
さらには、織田家を継いでいた「織田信忠」(おだのぶただ)も明智光秀に殺害されていたため、同家の後継者問題が浮上したのです。
これを解決すべく行なわれた「清洲会議」(きよすかいぎ)では、織田家の筆頭家老「柴田勝家」は、織田信長の次男「織田信雄」(おだのぶかつ)を推挙しますが、豊臣秀吉は織田信忠の嫡男「三法師」(さんぼうし)を後押ししたのです。
その結果、織田家の跡目は三法師が継ぐことになりましたが、まだ幼かったため、その後見人を織田信長の三男「織田信孝」(おだのぶたか)が務めることに決まりました。これにより、豊臣秀吉と柴田勝家の対立が決定的になったのです。
しかしこの頃の前田利家は、与力(よりき)として柴田勝家に従っていたため、親友の豊臣秀吉と戦わなければならなくなりました。
そして1583年(天正11年)、豊臣軍と柴田軍の間で「賤ヶ岳の戦い」(しずがたけのたたかい)が勃発。同合戦において前田利家は、5,000の兵を連れて出陣しましたが戦わずに退却。これが決定打となったことで柴田軍は総崩れとなり、撤退することになったのです。
豊臣政権下での前田利家とまつ
賤ヶ岳の戦い後、前田利家は「加賀国」(かがのくに:現在の石川県南部)内で2郡を加増され、嫡男「前田利長」(まえだとしなが)も、同国の「松任城」(まっとうじょう:現在の石川県白山市)4万石を与えられました。そして、前田利家は豊臣政権下において、ますます重要な存在になっていきます。
例えば朝鮮出兵の際に、豊臣秀吉が母・大政所の危篤の知らせを受け、京都に戻っていたとき、代わりに政務を担っていたのは「徳川家康」と前田利家でした。これに加えて前田利家は官位も上がり、「大納言」(だいなごん)に任ぜられたのです。
豊臣政権における前田利家の地位が上がっていくにしたがって、この他の諸大名も前田利家を頼るようになります。1595年(文禄4年)に「豊臣秀次」(とよとみひでつぐ)の切腹事件のときには「浅野幸長」(あさのよしなが)が連座で配流されましたが、前田利家の取り成しにより間もなく許されたのです。
そして前田利家は、豊臣秀吉に嫡子「豊臣秀頼」(とよとみひでより)が誕生した際に、豊臣秀頼の「傅役」(もりやく/ふやく:貴人の世継ぎの世話をする教育係)となり、「五大老」にも任命されました。
豊臣政権での前田利家の地位が上がったこと、そして、ねねとまつが親密な関係を築いていたことなどから、まつ自身も別格の待遇を受けるようになります。それがよく分かるのが、1598年(慶長3年)に豊臣秀吉が開催した「醍醐の花見」(だいごのはなみ)での逸話です。
この催しに豊臣秀吉は、徳川家康など諸大名の妻や、女性の使用人などを招待。
そのなかには、豊臣秀頼やその生母の「淀殿」(よどどの)、豊臣秀吉の正室・ねねもいました。
しかし、その宴席の場での盃(さかずき)を受ける順番を巡り、名門・京極家出身の「松の丸殿」(まつのまるどの)と淀殿が揉めたことが伝えられています。
そのとき、ねねとまつが仲裁に入り、その場を丸く収めたことにより、まつの名前は世の中により広く知られるところとなりました。
前田利家の没後、まつが下した決断とは
1598年(慶長3年)に豊臣秀吉が亡くなると、その遺言通り「大坂城」(現在の大阪城)に前田利家が入り、「伏見城」(ふしみじょう:現在の京都府京都市伏見区)には徳川家康が入りましたが、このとき徳川家康は、天下を手中に収めるため、すでに動き出していたのです。
まず、徳川家康は豊臣秀吉が禁じていた大名間の婚姻を進めていきます。このとき、前田利家そして徳川家康それぞれの屋敷に多くの大名が集まり、大きな騒動に発展。豊臣秀吉に仕えていた「加藤清正」や「細川忠興」(ほそかわただおき)などが前田利家を慕い、その屋敷に集まったと言われています。
結局、前田利家は徳川家康と誓紙(せいし:誓いの言葉が記された紙)を交わし穏便に済ませましたが、世の中では次の天下人は前田利家か、それとも徳川家康になるのかを窺う雰囲気が漂っていました。
1599年(慶長4年)に前田利家が亡くなると、まつはその菩提(ぼだい)を弔うために出家して「芳春院」(ほうしゅんいん)と号します。そんななか、前田家に謀反の疑いがあるとして、徳川家康が加賀征伐を計画。
前田利長は、金沢で迎え撃とうと交戦を主張しましたが、まつはこれを拒否し、疑いを晴らすために自分が人質となって江戸に行くことを決意しました。これがのちに、江戸幕府で大名の妻子に江戸常住を義務付ける最初の例となったのです。
このまつの決断により、徳川家康の天下人への流れが一気に加速。前田利家が死去したと言っても、前田利長は父の跡を継ぎ徳川家康と同じく、五大老のひとりになっていました。徳川家に唯一対抗できると目されていた前田家が徳川家に下ったことで、両者の天下争いは徳川家康に軍配が上がったのです。
✋热门推荐