宗萨仁波切教言节选:爱就是一场交易
宗萨仁波切在主持弟子的婚礼时:菩萨戒的精要就是,要让一切众生得到解脱、得到自由,如果你们不能让一切众生自由,最起码,你们可以让对方自由,这也是维系夫妻关系的关键。所以,在菩提心的摄持下,你们今天结婚,也就意味着,今天开始要努力给予对方自由和解脱。
我们每个人都认为我们很爱自己的家人,你很爱自己的孩子、妻子,不是吗?你会带她们去吃他们喜欢的披萨,他们过生日的时候从不忘记给他们买礼物,在他们不高兴的时候扮怪物尝试改变他们的心情。我们每个人都确信这就是爱,大概没有人会说这不是爱。
根据佛法,在我们证悟之前,我们所有的爱都是基于自我。或者说,我们所有的爱都需要回馈。当我们给了对方一个吻,我们至少希望也得到一个同样的吻或是其他东西。
我想稍微谈一下我们基于自我的爱与无我的爱之间的差异。无论我们是否察觉,我们事实上一直在计算。对家人,对朋友,对我们的爱情。如果你读过我之前的文章就应该知道,自我一直没有安全感,它非常缺乏存在感,为此他需要不断的通过他人、外境来摄取存在感。
为此我们建立家庭、学校、政府、医院、养老院以及各种社会组织,以获取各种不同时期所需的安全感。
在你出生的时候,你有爸爸妈妈,他们是你最大的安全感的ATM机。当你缺乏安全感的时候,你就会找他们要。当你长大了,你的爱人会给你最大的安全感。当你发现他已经不爱你了,你会寻找另一个安全感的来源——另一个爱人或是孩子,让他们给你新的安全感。
在这里我们着重讨论,我们如何从家庭与爱情来获取安全感。这两者在我们生命力所占比重非常大。当你认为你在爱的时候,事实上,你一直在试着维持收支平衡,我指的是爱情上的收支平衡。
当然不是完全指金钱,它的范围非常广,我可以举一个例子:如果你每天都亲吻你的爱人,而他从不主动亲你,这样过了一段时间,你就会觉得不平衡。你会怀疑他对你的爱。我指的是类似这种收支平衡。
假如你付出十块钱的爱,那么你是否要求对方至少付出八块钱的爱。如果对方付出的爱只有五块钱你就会非常生气,但你会试着告诉他你付出的是十块钱,因此他不能只回馈五块钱,但通常我们在这个过程中就会发生争吵。
我们吵嘴的时候都会说:我为这个家付出了这么多,可你呢?
这表示我们一直在计算,试图维持感情方面的收支平衡。连最纯洁的爱情也未能免俗,因为我们有自我,我们需要喂养自我。这让我们无法专心的爱,无法心无旁骛的爱。我们和对方拥吻的时候手里都拿着计算器。
家庭或爱情是一个我们最不希望出问题的地方,因为它是一个我们可以不断从中吸取安全感的来源。
但他同样很危险,我们以为我们已经调到安全模式,但总是会有意外跑出来打破我们的安全错觉。一旦我们觉得自己在爱情或家庭方面收支不平衡,我们所得到的就是不安全感,我们的自我感到威胁。
想想看,所有的家庭矛盾,所有的爱情问题都是因为感情方面的收支不平衡。你给了他十块钱的爱,可他呢。他好像完全不知道,他至少应该给我六块钱吧,可他给我的最多只能算两块钱。
无论是对我们的男朋友、女朋友,还是我们的先生太太,甚至对我们的父母子女,我们其实都是这样的。这就是基于自我的爱,这种爱要求回报,它从来不是无私的——掺杂自我的爱从来不是无私的。
我无意声讨这种爱。身为未证悟实相者,即使我们想,我们也不可能有超越这种爱的爱。但我不认为这是真的爱,这种爱以自我为中心,很少真正考虑别人的感受。
它以对方的付出来决定自己的付出,这是交易。这也是为什么我们的家庭关系老是这么紧张。总是出各种问题。因为我们并没有真的爱过任何人,你有完全不需要回馈的爱过任何人吗?不管他做什么都丝毫不影响你对他的爱?我很怀疑你们中有任何人有过这样的爱。
如果我们觉得我们的女朋友不高兴,我们会表现出很关心的样子,那不是因为我们爱她,那是因为作为我们身边的重要人物,她的不开心早晚会波及我们自己。会搞乱我们的计划,我们晚上的计划可能就泡汤了。我们很怕这种麻烦。这只是我们为了避免自我受伤采取的措施。
如同多数父母强迫自己的孩子在很小的时候就肩负荣耀家族的使命。这其实是全然的自私。我不认为他们有从孩子的角度考虑过。他们不过是希望让孩子满足他们的自我,重建他们失败的人生。在爱情里,我们也是如此,我们希望对方全然满足我们的自我。
我们之所以爱对方,因为对方爱我们几乎像我们爱自己一样,我们在他这里可以体会自我被全然满足的快感。但好景不长,很快,因为对方也是自私的,他来我们这里也是为了满足他的自我。
因此,当最初的冲动慢慢停滞下来之后,双方都开始看到对方的一点真面目。那时候双方都开始要求对方提供不少于自己的爱的爱,这是潜规则,你当然不会说:我给了你这么多,所以你也必须给我这么多。但没有说不代表你没有想。一切都心照不宣。
双方关系最佳时期可能就是双方收支比较平衡的时期。但很快,我们被其他事情分心了,其中一方可能不能及时提供对方所希望的那么多爱了。
这个时候,另一方就会感觉不安全。争吵就可能发生。这样的事情每天都发生在我们身上,发生在我们的爱情和亲情上。如果双方收支已经到了差异巨大的时候,这个时候,我们就会倾向于建立一段新的感情以维持自我的养料。
这就是我们的爱。我们是这样的人,即使我们在墙上画了一朵花,我们都会希望它得到别人的关注,每次路过我们都会提醒其他人:那是我画的。因为我们有期待,我们期待收到几句赞美。
我们在这里猜想一下圣者的爱,依据佛教的理论,如佛陀一般的圣者已经证悟无我,他没有一个自我需要被满足。因此,他不需要通过结婚,或是建立家庭,结交朋友来摄取安全感。他待在黑暗里也不会怕黑。他也不需要电影音乐来娱乐自己。
想象一下没有自我的人,他没有自他分别,他不认为某些人比另一些人更重要,我们认为某些人比另一些人更重要,无非是因为他们在我们的生命中扮演了重要的角色,我们需要这些重要的角色,我们的自我的大部分食物都由他们提供,因此经营好与这些重要人物的关系在我们的生命中显得尤为重要。而一个成就者,他不需要讨好任何人,因为他无需从他们那里获取自我的食物。
一个完全无我的人,一个视你如他自己的人,他爱你的方式可能很多样化,但他最关心的当然是让你获得和他一样的解脱。为此他可以和你一起喝酒,也可能揍你一顿,可能给你讲佛法,也可能和你讨论女人,只要可以将你导向解脱,他不在乎做任何事。
他也不期待你有某种回报,因为他没有自我需要被喂养。他不需要计算付出的爱和收到的爱是否均衡,因此他的爱是真正的爱,而不是我们假模假式的爱。
宗萨仁波切在主持弟子的婚礼时:菩萨戒的精要就是,要让一切众生得到解脱、得到自由,如果你们不能让一切众生自由,最起码,你们可以让对方自由,这也是维系夫妻关系的关键。所以,在菩提心的摄持下,你们今天结婚,也就意味着,今天开始要努力给予对方自由和解脱。
我们每个人都认为我们很爱自己的家人,你很爱自己的孩子、妻子,不是吗?你会带她们去吃他们喜欢的披萨,他们过生日的时候从不忘记给他们买礼物,在他们不高兴的时候扮怪物尝试改变他们的心情。我们每个人都确信这就是爱,大概没有人会说这不是爱。
根据佛法,在我们证悟之前,我们所有的爱都是基于自我。或者说,我们所有的爱都需要回馈。当我们给了对方一个吻,我们至少希望也得到一个同样的吻或是其他东西。
我想稍微谈一下我们基于自我的爱与无我的爱之间的差异。无论我们是否察觉,我们事实上一直在计算。对家人,对朋友,对我们的爱情。如果你读过我之前的文章就应该知道,自我一直没有安全感,它非常缺乏存在感,为此他需要不断的通过他人、外境来摄取存在感。
为此我们建立家庭、学校、政府、医院、养老院以及各种社会组织,以获取各种不同时期所需的安全感。
在你出生的时候,你有爸爸妈妈,他们是你最大的安全感的ATM机。当你缺乏安全感的时候,你就会找他们要。当你长大了,你的爱人会给你最大的安全感。当你发现他已经不爱你了,你会寻找另一个安全感的来源——另一个爱人或是孩子,让他们给你新的安全感。
在这里我们着重讨论,我们如何从家庭与爱情来获取安全感。这两者在我们生命力所占比重非常大。当你认为你在爱的时候,事实上,你一直在试着维持收支平衡,我指的是爱情上的收支平衡。
当然不是完全指金钱,它的范围非常广,我可以举一个例子:如果你每天都亲吻你的爱人,而他从不主动亲你,这样过了一段时间,你就会觉得不平衡。你会怀疑他对你的爱。我指的是类似这种收支平衡。
假如你付出十块钱的爱,那么你是否要求对方至少付出八块钱的爱。如果对方付出的爱只有五块钱你就会非常生气,但你会试着告诉他你付出的是十块钱,因此他不能只回馈五块钱,但通常我们在这个过程中就会发生争吵。
我们吵嘴的时候都会说:我为这个家付出了这么多,可你呢?
这表示我们一直在计算,试图维持感情方面的收支平衡。连最纯洁的爱情也未能免俗,因为我们有自我,我们需要喂养自我。这让我们无法专心的爱,无法心无旁骛的爱。我们和对方拥吻的时候手里都拿着计算器。
家庭或爱情是一个我们最不希望出问题的地方,因为它是一个我们可以不断从中吸取安全感的来源。
但他同样很危险,我们以为我们已经调到安全模式,但总是会有意外跑出来打破我们的安全错觉。一旦我们觉得自己在爱情或家庭方面收支不平衡,我们所得到的就是不安全感,我们的自我感到威胁。
想想看,所有的家庭矛盾,所有的爱情问题都是因为感情方面的收支不平衡。你给了他十块钱的爱,可他呢。他好像完全不知道,他至少应该给我六块钱吧,可他给我的最多只能算两块钱。
无论是对我们的男朋友、女朋友,还是我们的先生太太,甚至对我们的父母子女,我们其实都是这样的。这就是基于自我的爱,这种爱要求回报,它从来不是无私的——掺杂自我的爱从来不是无私的。
我无意声讨这种爱。身为未证悟实相者,即使我们想,我们也不可能有超越这种爱的爱。但我不认为这是真的爱,这种爱以自我为中心,很少真正考虑别人的感受。
它以对方的付出来决定自己的付出,这是交易。这也是为什么我们的家庭关系老是这么紧张。总是出各种问题。因为我们并没有真的爱过任何人,你有完全不需要回馈的爱过任何人吗?不管他做什么都丝毫不影响你对他的爱?我很怀疑你们中有任何人有过这样的爱。
如果我们觉得我们的女朋友不高兴,我们会表现出很关心的样子,那不是因为我们爱她,那是因为作为我们身边的重要人物,她的不开心早晚会波及我们自己。会搞乱我们的计划,我们晚上的计划可能就泡汤了。我们很怕这种麻烦。这只是我们为了避免自我受伤采取的措施。
如同多数父母强迫自己的孩子在很小的时候就肩负荣耀家族的使命。这其实是全然的自私。我不认为他们有从孩子的角度考虑过。他们不过是希望让孩子满足他们的自我,重建他们失败的人生。在爱情里,我们也是如此,我们希望对方全然满足我们的自我。
我们之所以爱对方,因为对方爱我们几乎像我们爱自己一样,我们在他这里可以体会自我被全然满足的快感。但好景不长,很快,因为对方也是自私的,他来我们这里也是为了满足他的自我。
因此,当最初的冲动慢慢停滞下来之后,双方都开始看到对方的一点真面目。那时候双方都开始要求对方提供不少于自己的爱的爱,这是潜规则,你当然不会说:我给了你这么多,所以你也必须给我这么多。但没有说不代表你没有想。一切都心照不宣。
双方关系最佳时期可能就是双方收支比较平衡的时期。但很快,我们被其他事情分心了,其中一方可能不能及时提供对方所希望的那么多爱了。
这个时候,另一方就会感觉不安全。争吵就可能发生。这样的事情每天都发生在我们身上,发生在我们的爱情和亲情上。如果双方收支已经到了差异巨大的时候,这个时候,我们就会倾向于建立一段新的感情以维持自我的养料。
这就是我们的爱。我们是这样的人,即使我们在墙上画了一朵花,我们都会希望它得到别人的关注,每次路过我们都会提醒其他人:那是我画的。因为我们有期待,我们期待收到几句赞美。
我们在这里猜想一下圣者的爱,依据佛教的理论,如佛陀一般的圣者已经证悟无我,他没有一个自我需要被满足。因此,他不需要通过结婚,或是建立家庭,结交朋友来摄取安全感。他待在黑暗里也不会怕黑。他也不需要电影音乐来娱乐自己。
想象一下没有自我的人,他没有自他分别,他不认为某些人比另一些人更重要,我们认为某些人比另一些人更重要,无非是因为他们在我们的生命中扮演了重要的角色,我们需要这些重要的角色,我们的自我的大部分食物都由他们提供,因此经营好与这些重要人物的关系在我们的生命中显得尤为重要。而一个成就者,他不需要讨好任何人,因为他无需从他们那里获取自我的食物。
一个完全无我的人,一个视你如他自己的人,他爱你的方式可能很多样化,但他最关心的当然是让你获得和他一样的解脱。为此他可以和你一起喝酒,也可能揍你一顿,可能给你讲佛法,也可能和你讨论女人,只要可以将你导向解脱,他不在乎做任何事。
他也不期待你有某种回报,因为他没有自我需要被喂养。他不需要计算付出的爱和收到的爱是否均衡,因此他的爱是真正的爱,而不是我们假模假式的爱。
#世界文化艺术# #美术[超话]#
亨利·德·图卢兹·罗特列克(1864.11.24-1901.9.9),后印象派画家。从1892年到1895年,罗特列克画过许多巴黎妓院生活的油画与素描。他比任何人都更加受埃德加·德加的影响,是个不适俗韵、与众不同的贵族。这幅《医检》创作于1894年,在人物的画法,或给这个情景以即兴背景的快速表现中,可以看出罗特列克在素描上的杰出才华。他对于主题的接近是超然的,在官能性的神韵等处可以感觉到绝不受拘绊的某种余裕,这种自由的态度对于所谓的“残废者”亦毫不改变,这是罗特列克富于人味的宽容。
(图为:《医检》,纸板油彩,83.5cm×61.4cm,现收藏于美国华盛顿区国家画廊。)
亨利·德·图卢兹·罗特列克(1864.11.24-1901.9.9),后印象派画家。从1892年到1895年,罗特列克画过许多巴黎妓院生活的油画与素描。他比任何人都更加受埃德加·德加的影响,是个不适俗韵、与众不同的贵族。这幅《医检》创作于1894年,在人物的画法,或给这个情景以即兴背景的快速表现中,可以看出罗特列克在素描上的杰出才华。他对于主题的接近是超然的,在官能性的神韵等处可以感觉到绝不受拘绊的某种余裕,这种自由的态度对于所谓的“残废者”亦毫不改变,这是罗特列克富于人味的宽容。
(图为:《医检》,纸板油彩,83.5cm×61.4cm,现收藏于美国华盛顿区国家画廊。)
#日剧美丽的他[超话]##八木勇征##萩原利久# 采访
cr.wotopi 2021/11/18
——お二人は初共演ですが、最初に会った時の印象は?
萩原:勇征くんは、明るくていい人です。僕は初対面のとき緊張して遠慮がちになってしまうのですが、勇征くんはすごく丁寧な挨拶をしてくれました。「なんて気持ちのいい挨拶なんだ」と感動して、次に現場で会うときは僕も元気を多めに出していこうって思ったほどです。そういうポジティブな印象が今日まで変わらないです。第一印象って変わっていくものだと思うのですが、最初の印象のままという珍しいタイプの人です。
八木:今、とてもいい気分です(笑)。
萩原:実年齢では僕が1歳年下なので、時々お兄さんのように接してくれたりしつつ、同級生のような気さくさもあって。丁寧で明るくて話しやすい。頼れる人ですね。
八木:ありがとう。僕は利久くんとは真逆で、今では第一印象がひっくり返っています。最初は真面目で物静かなタイプなのかと思ったのですが、利久くんは「少年」です。活発な短パン小僧!という感じですね。
萩原:あはは!(笑)。
八木:この明るさが本当に素敵で。現場にいると体力的にも精神的にもちょっとハードだなと思う瞬間があるのですが、そんな時に雰囲気を変えてくれるのが利久くんなんです。演者だけでなく、スタッフさんたちも巻き込んで現場を明るくしてくれる。そんな魅力を持つ人だと思います。
——萩原さんは役者としてキャリアを積み、八木さんはグループでアーティストとしても活動をされています。普段のフィールドが違うからこそ、刺激を受けた部分があれば教えてください。
八木:僕が受け取ったのは、空間を共有する力。利久くんと演技をしていると、今こんな空間にいて、だからこういう芝居なんだなというのが伝わってくるんです。経験を重ねないとできないことだと思いますし、現場でたくさんのことを学ばせてもらっています。役者として学んでいることがライブにも活かせるなって思う瞬間もあるんですよ。
萩原:そうなんだ。
八木:たとえば、ライブ会場でどんな世界観や空間を作るのか、自分たちがちゃんと空間を把握できていなければ、ただ歌って踊っているだけになってしまいます。自分たちの空間を作り上げてこそ、ライブに来てくださるたくさんの人とも感情を共有できるなって。逆にライブの経験で得たことも俳優としての活動に活かせるかもしれないと思っていて、それぞれ影響を与え合っているんだなと感じます。
萩原:僕が感じたのは……。まず、体力が桁違いです。普段から運動をたくさんしているのもあると思いますが、朝の状態が僕とは全然違うんですよね。僕が「目が開かないよー」としょぼしょぼしているのに対して、勇征くんはいつでもぱっちりしているんです。
八木:そうかな?(笑)
萩原:とにかく元気。というか……気持ちがいいんです。存在自体が。同じようなスケジュールのはずなのに、どうしてここまで違うのか驚いています。たとえば、翌日が撮休で僕が「やったー」と喜ぶ側で、勇征くんは「ライブのリハ行ってきます」みたいな。全然休みがないんですよ。そんな姿を見ると休みたいなんて口が裂けても言えないです。隣にものすごい努力をしている人がいると、引っ張ってもらえるというか。自分も頑張らなきゃ、踏ん張りたいなという刺激を受けます。勇征くんと居ると、元気な人は周囲にもポジティブな影響を与えるんだと実感しますね。
——八木さんのその元気は、どこから?
八木:自分が感じる楽しいという感情からですかね。好きなことをしているのに元気じゃない状態になるのは不自然というか、100%で楽しめないのはもったいないと思ってしまうんです。何より、グループ活動があるからこそ、こういった個人活動もさせていただけるので。感謝して、楽しんで。好きなことに対して楽しまなきゃ損だって思う気持ちが、僕の原動力だと思います。あとはよく食べてよく寝る!
——よく食べてよく寝る、大事ですよね。萩原さんはいかがですか?
萩原:僕は玉置浩二さんが好きで、朝、玉置さんの曲を聴いて1日を始めます。それから、好きなスポーツを観ること。好きなことや好きな人から元気をもらっています。
——それは、萩原さん演じる平良が清居に強烈に惹かれてしまう部分と通じるところもあるかもしれませんね。
萩原:そうですね。平良と清居の関係はアイドルファンとアイドルに近いのかもしれないと思いました。僕も好きなスポーツ選手を日々のモチベーションにするので、誰かに強く憧れる平良の心境に共感できました。そして、そういう存在の人が身近にいたら、生活が激変するのもよくわかる。ただ、あんなに何度も突き放されたら心が折れると思いますけど(苦笑)。
八木:毎日(撮影で)「キモい」って言ってるからね。
萩原:はい。毎日言われてます(笑)。
八木:僕は人に「キモい」と言えない……というか言いません。そこは明らかに清居と違う点。でも、いただいた設定資料に書かれていた、清居の生い立ちを見て共感する部分はありました。僕自身も、母と二人の生活だったので。母の帰りが遅くなるときは寂しくて、友達と遅くまで遊んで一人でいる時間を少なくしたいと思ったこともありましたし……。孤独だから誰かを求めたり、人に囲まれていても孤独を感じたり、というのはわかる気がしました。
——今作のオファーを受けた時のことは覚えていらっしゃいますか?
萩原:初めてのジャンルだったので、挑戦だなと思いました。高校生の役は10代の頃にもありましたが、今の自分としてどう入っていこうかなという楽しみな気持ちと、緊張と挑戦と。同時にいろんな感情が浮かんできました。
八木:僕自身は、連続ドラマの主演が初めてなので、全てが新鮮で衝撃的でした。BLというジャンルにも、全く戸惑いはありません。恋愛観はそれぞれですし、今は(それらを含む作品があることが)浸透してきていますよね。実際に自分がこの作品に携わったことで、愛は自由なものだとより思うようにもなりました。
萩原:先ほど挑戦と言いましたが、それは自分がこのジャンルの作品に出演することに対する思いではなく、作品として表現するうえでの挑戦です。たとえば、身長が同じだと目線も同じですし。そういう二人が同じ画面の中に存在するときに、どういう見え方になるのだろうとか。いち視聴者として見ている時には深く考えたことがなかったので、挑戦だと思いました。
——撮影の感想は?
八木:酒井(麻衣)監督は、きれいな画を撮りたいと最初からおっしゃっていて。どう見えるか考えながら演じるのは楽しかったですね。顔を寄せるシーンも、「こっちのほうがきれいに見えるかな」と現場でアイデアを出して確認して。リハーサルや段取りの時間も楽しいなと感じました。
萩原:酒井監督とご一緒するのは3回目になります。僕は、監督のことを全面的に信頼しているんです。演者が余計なことを考えなくていいように、演者ファーストな現場を作ってくださるから。そして、酒井監督が撮る作品は映像が本当にきれいなんです。僕らが想像する何倍も細部までこだわりを持って作られているんですよ。本作も、会話、動き、目線、風景どれも丁寧に作っているので、画面の隅々まで注目して見ていただけるとうれしいです。
八木:清居と平良以外の人間関係も見ていただきたいです。いろんな感情を投影できるような作品になっていると思いますので、楽しみに待っていてください。
cr.wotopi 2021/11/18
——お二人は初共演ですが、最初に会った時の印象は?
萩原:勇征くんは、明るくていい人です。僕は初対面のとき緊張して遠慮がちになってしまうのですが、勇征くんはすごく丁寧な挨拶をしてくれました。「なんて気持ちのいい挨拶なんだ」と感動して、次に現場で会うときは僕も元気を多めに出していこうって思ったほどです。そういうポジティブな印象が今日まで変わらないです。第一印象って変わっていくものだと思うのですが、最初の印象のままという珍しいタイプの人です。
八木:今、とてもいい気分です(笑)。
萩原:実年齢では僕が1歳年下なので、時々お兄さんのように接してくれたりしつつ、同級生のような気さくさもあって。丁寧で明るくて話しやすい。頼れる人ですね。
八木:ありがとう。僕は利久くんとは真逆で、今では第一印象がひっくり返っています。最初は真面目で物静かなタイプなのかと思ったのですが、利久くんは「少年」です。活発な短パン小僧!という感じですね。
萩原:あはは!(笑)。
八木:この明るさが本当に素敵で。現場にいると体力的にも精神的にもちょっとハードだなと思う瞬間があるのですが、そんな時に雰囲気を変えてくれるのが利久くんなんです。演者だけでなく、スタッフさんたちも巻き込んで現場を明るくしてくれる。そんな魅力を持つ人だと思います。
——萩原さんは役者としてキャリアを積み、八木さんはグループでアーティストとしても活動をされています。普段のフィールドが違うからこそ、刺激を受けた部分があれば教えてください。
八木:僕が受け取ったのは、空間を共有する力。利久くんと演技をしていると、今こんな空間にいて、だからこういう芝居なんだなというのが伝わってくるんです。経験を重ねないとできないことだと思いますし、現場でたくさんのことを学ばせてもらっています。役者として学んでいることがライブにも活かせるなって思う瞬間もあるんですよ。
萩原:そうなんだ。
八木:たとえば、ライブ会場でどんな世界観や空間を作るのか、自分たちがちゃんと空間を把握できていなければ、ただ歌って踊っているだけになってしまいます。自分たちの空間を作り上げてこそ、ライブに来てくださるたくさんの人とも感情を共有できるなって。逆にライブの経験で得たことも俳優としての活動に活かせるかもしれないと思っていて、それぞれ影響を与え合っているんだなと感じます。
萩原:僕が感じたのは……。まず、体力が桁違いです。普段から運動をたくさんしているのもあると思いますが、朝の状態が僕とは全然違うんですよね。僕が「目が開かないよー」としょぼしょぼしているのに対して、勇征くんはいつでもぱっちりしているんです。
八木:そうかな?(笑)
萩原:とにかく元気。というか……気持ちがいいんです。存在自体が。同じようなスケジュールのはずなのに、どうしてここまで違うのか驚いています。たとえば、翌日が撮休で僕が「やったー」と喜ぶ側で、勇征くんは「ライブのリハ行ってきます」みたいな。全然休みがないんですよ。そんな姿を見ると休みたいなんて口が裂けても言えないです。隣にものすごい努力をしている人がいると、引っ張ってもらえるというか。自分も頑張らなきゃ、踏ん張りたいなという刺激を受けます。勇征くんと居ると、元気な人は周囲にもポジティブな影響を与えるんだと実感しますね。
——八木さんのその元気は、どこから?
八木:自分が感じる楽しいという感情からですかね。好きなことをしているのに元気じゃない状態になるのは不自然というか、100%で楽しめないのはもったいないと思ってしまうんです。何より、グループ活動があるからこそ、こういった個人活動もさせていただけるので。感謝して、楽しんで。好きなことに対して楽しまなきゃ損だって思う気持ちが、僕の原動力だと思います。あとはよく食べてよく寝る!
——よく食べてよく寝る、大事ですよね。萩原さんはいかがですか?
萩原:僕は玉置浩二さんが好きで、朝、玉置さんの曲を聴いて1日を始めます。それから、好きなスポーツを観ること。好きなことや好きな人から元気をもらっています。
——それは、萩原さん演じる平良が清居に強烈に惹かれてしまう部分と通じるところもあるかもしれませんね。
萩原:そうですね。平良と清居の関係はアイドルファンとアイドルに近いのかもしれないと思いました。僕も好きなスポーツ選手を日々のモチベーションにするので、誰かに強く憧れる平良の心境に共感できました。そして、そういう存在の人が身近にいたら、生活が激変するのもよくわかる。ただ、あんなに何度も突き放されたら心が折れると思いますけど(苦笑)。
八木:毎日(撮影で)「キモい」って言ってるからね。
萩原:はい。毎日言われてます(笑)。
八木:僕は人に「キモい」と言えない……というか言いません。そこは明らかに清居と違う点。でも、いただいた設定資料に書かれていた、清居の生い立ちを見て共感する部分はありました。僕自身も、母と二人の生活だったので。母の帰りが遅くなるときは寂しくて、友達と遅くまで遊んで一人でいる時間を少なくしたいと思ったこともありましたし……。孤独だから誰かを求めたり、人に囲まれていても孤独を感じたり、というのはわかる気がしました。
——今作のオファーを受けた時のことは覚えていらっしゃいますか?
萩原:初めてのジャンルだったので、挑戦だなと思いました。高校生の役は10代の頃にもありましたが、今の自分としてどう入っていこうかなという楽しみな気持ちと、緊張と挑戦と。同時にいろんな感情が浮かんできました。
八木:僕自身は、連続ドラマの主演が初めてなので、全てが新鮮で衝撃的でした。BLというジャンルにも、全く戸惑いはありません。恋愛観はそれぞれですし、今は(それらを含む作品があることが)浸透してきていますよね。実際に自分がこの作品に携わったことで、愛は自由なものだとより思うようにもなりました。
萩原:先ほど挑戦と言いましたが、それは自分がこのジャンルの作品に出演することに対する思いではなく、作品として表現するうえでの挑戦です。たとえば、身長が同じだと目線も同じですし。そういう二人が同じ画面の中に存在するときに、どういう見え方になるのだろうとか。いち視聴者として見ている時には深く考えたことがなかったので、挑戦だと思いました。
——撮影の感想は?
八木:酒井(麻衣)監督は、きれいな画を撮りたいと最初からおっしゃっていて。どう見えるか考えながら演じるのは楽しかったですね。顔を寄せるシーンも、「こっちのほうがきれいに見えるかな」と現場でアイデアを出して確認して。リハーサルや段取りの時間も楽しいなと感じました。
萩原:酒井監督とご一緒するのは3回目になります。僕は、監督のことを全面的に信頼しているんです。演者が余計なことを考えなくていいように、演者ファーストな現場を作ってくださるから。そして、酒井監督が撮る作品は映像が本当にきれいなんです。僕らが想像する何倍も細部までこだわりを持って作られているんですよ。本作も、会話、動き、目線、風景どれも丁寧に作っているので、画面の隅々まで注目して見ていただけるとうれしいです。
八木:清居と平良以外の人間関係も見ていただきたいです。いろんな感情を投影できるような作品になっていると思いますので、楽しみに待っていてください。
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