《送别》——乌龙事件
生活中的乌龙事件。
前后消息不一,害的我清晨写挽文。
送别(一)是误传
送别(二)是临时在(送别一)更改的。
此事告诫人们莫以讹传讹。事实亦会失真,以假乱真。做人做事要以真实为准,莫听传言!眼见为实,耳听为虚。
这是验证我的文笔啊!此句是玩笑!
送 别(一)
文/凝香
人有旦夕祸福,听闻一个消息,说你于12月18日下午三时左右与朋友遛弯时心梗猝S,不知属实否。我宁愿不是真的!我把我的V改为一朵荷花。静默待你!
记得,1989年,我在Q,你在N,师范毕业了。同年7月不在同校却一起走上了同一个城市的教育生涯,你在村里的一所学校,我在街里一所学校任教。皆因当年师范毕业归属定向分配。
N年后,你转入我所任教的学校。当年,我们同为教师,任教不同科。你是任教思想道德品德(道德与法治),我是班主任。就这样,我们一同为教育事业任劳任怨,甘之如饴。没多久,在一次暑假即将到来,我们各学科组正在各自批阅学生的期末试卷,突然传来你儿子被车撞的消息,你放下手中的试卷,飞奔赶往现场,当发现孩子没事时,你高度紧张的心却失控了,整个人失智瘫软在地,话也说不出来了。是我们几个同事听闻你儿子的讯息,即刻放下手中的批阅,立马飞奔紧随你身后,连忙搀扶你倒下去的身体,可是你身体像一摊“泥”,怎么也扶不起来。我们只好把你半搀半抬领回你偌大的出租屋,你儿子当时年龄小,发生事情后又去玩了,而你的丈夫工作在外地。只有我们N个同事陪伴在你的身边,轻揉按摩你的身体,力求你的身体每一个敏感的神经与脉络尽快复苏,还是健康的你。几个小时过去了,你能进水说话,能独立坐在椅子上,但不能起立。天黑了,有的同事需要下班回家打点家中事务,我和同事L(我师傅)留下来一直陪伴在你的身边,按摩,搀扶你走路,继续复醒你的身体。直到你说话、吃东西、行走如常,我和L才放心的各自回家。
还记得吗?一次学校区内郊游,我和你在一个小溪边的土坡上留影,在阳光明媚的映照下,我们年轻,活力四射,朝气蓬勃,连笑都那样洒脱清纯。无一处不散发着青春灵动的气息!温婉可人,温情简约,温和友爱。
世事多变迁,我们不知何时变得不再熟悉而陌生,至始至终我依旧待人无恙,可却觉得离你们又近又遥远,触摸不到当年的影子和熟悉的味道。我好落寞与心凉。我反思,我深省,或许是我的政业绩让我们彼此间有了心的距离。不再如昨同欢!于是,我不与任何人争,亦不与人为恶,只独处一室或一隅做着属于我的工作,不再亲近你们,求的是太平与安宁。可是,树欲静而风不止,在世时,你懂的,如学校保健室晋级——市级标准化评选,还有图书室……人去万事皆空,一切随时而走,随风而去,随土掩藏吧。
不管你们对我做了什么,这么多年,我心里从未有过争利过来。不羡官,不慕名……尽管遭遇很多,我依然心里坦荡清透,活得通透踏实。
听说今天是你亲人送别你的日子,作为同事,当年的好友,我不再N,不能亲自送别你,估计现在这个时间你已是亲友送别的路上,我借时空遥寄这封信件,祝你再无病痛,一路走好,在另一个世界上做最初我喜欢的那个善良的你!
2022年1月20日 早
送 别(二)
文/凝香
人有旦夕祸福,听闻一个消息,说你于12月18日下午三时左右与朋友遛弯时心梗猝S,不知属实否。我宁愿不是真的!我把我的V改为一朵荷花。静默待你!
记得,1989年,我在Q,你在N,师范毕业了。同年7月不在同校却一起走上了同一个城市的教育生涯,你在村里的一所学校,我在街里一所学校任教。皆因当年师范毕业归属定向分配。
N年后,你转入我所任教的学校。当年,我们同为教师,任教不同科。你是任教思想道德品德(道德与法治),我是班主任。就这样,我们一同为教育事业任劳任怨,甘之如饴。没多久,在一次暑假即将到来,我们各学科组正在各自批阅学生的期末试卷,突然传来你儿子被车撞的消息,你放下手中的试卷,飞奔赶往现场,当发现孩子没事时,你高度紧张的心却失控了,整个人失智瘫软在地,话也说不出来了。是我们几个同事听闻你儿子的讯息,即刻放下手中的批阅,立马飞奔紧随你身后,连忙搀扶你倒下去的身体,可是你身体像一摊“泥”,怎么也扶不起来。我们只好把你半搀半抬领回你偌大的出租屋,你儿子当时年龄小,发生事情后又去玩了,而你的丈夫工作在外地。只有我们N个同事陪伴在你的身边,轻揉按摩你的身体,力求你的身体每一个敏感的神经与脉络尽快复苏,还是健康的你。几个小时过去了,你能进水说话,能独立坐在椅子上,但不能起立。天黑了,有的同事需要下班回家打点家中事务,我和同事L(我师傅)留下来一直陪伴在你的身边,按摩,搀扶你走路,继续复醒你的身体。直到你说话、吃东西、行走如常,我和L才放心的各自回家。
还记得吗?一次学校区内郊游,我和你在一个小溪边的土坡上留影,在阳光明媚的映照下,我们年轻,活力四射,朝气蓬勃,连笑都那样洒脱清纯。无一处不散发着青春灵动的气息!温婉可人,温情简约,温和友爱。
世事多变迁,我们不知何时变得不再熟悉而陌生,至始至终我依旧待人无恙,可却觉得离你们又近又遥远,触摸不到当年的影子和熟悉的味道。我好落寞与心凉。我反思,我深省,或许是我的政业绩让我们彼此间有了心的距离。不再如昨同欢!于是,我不与任何人争,亦不与人为恶,只独处一室或一隅做着属于我的工作,不再亲近你们,求的是太平与安宁。可是,树欲静而风不止,你懂的,如学校保健室晋级——市级标准化评选,还有图书室……
不管你们对我做了什么,这么多年,我心里从未有过争利过来的想法。不羡官,不慕名……尽管遭遇很多,我依然心里坦荡清透,活得通透踏实。
今早又传来消息,不是你病逝,而是你的丈夫。(对你的挽文刚写好,临时更正修改。这算是上天核检我的文笔水准,亦是一次很好的写作练笔。)
听说今天是你亲人送别你丈夫的日子,作为同事,当年的好友,我不在N,不能亲自到场陪你送别了,见谅!估计现在这个时间你和亲友在送别你丈夫的路上,我借时空遥寄这封信件,愿你节哀顺变!疫情期,仅能以此方式慰之,你的儿子是我启蒙并教至毕业亦算一场缘的修行。人去万事皆空,一切随时而走,随风而去,随土掩藏吧。
2022年1月20日 早
【20220101冬婚repo】
KinKi Kidsが伝えたエンターテインメントへの思い
https://t.cn/A6JLSFPJ
今年、CDデビューから25周年を迎えたKinKi Kidsが、6年ぶりとなる元日の東京ドームコンサートを開催した。
1998年に初めて東京ドームでのライブを行ってから、今回で24回、公演回数は59回となり、自身の持つ「単独アーティストによる東京ドーム最多公演数」の記録を更新。そんなメモリアルなライブは、コロナ禍の影響もあり、ジャニーズでは異例のステージだった。
——キンキらしいやりとりに笑いも
舞台上には、ピンスポットが当たったグランドピアノ一台。1曲目「新しい時代」のイントロを弾き始めると2人が登場した。
曲終わりには、光一が「さて、新しい時代が始まりました。こうして急遽決まった我々のコンサートなんですけど、こんなにも来ていただいてありがとうございます」と挨拶。
そんな姿を横で見つめていた剛は、「まま、座れば?」と光一に言いながら先にイスに座り始めると、「君の家みたいな言い方しないでくれる(笑)」とツッコミ。キンキらしいやりとりに観客から笑いがこぼれた。
今回のライブは昨年11月に発表されてから、準備期間があまり取れないなかで進められた。結果的にピアノ一本で行うことに、光一は「ものすごい贅沢な使い方じゃないですか。今回はもうピアノ演奏者の園田さん頼りだからね」と笑いながら話すと、剛は「ただ我々も女性でいうと、ノーメイクの素顔に近い状態ですよ」とコメント。
プレッシャーを感じている様子を見せながらも、剛が「ピアノ1本だから、いつもとは違う歌に聞こえると思う。いかにプロだっていうところを見せますよ」と意気込む。その後、「to Heart」「スワンソング」をピアノアレンジのバージョンで披露した。
——コロナ禍でのライブエンターテイメントへの思い
MCでは、このライブの前日に同場所で2年ぶりに行われた「ジャニーズカウントダウンコンサート」の話題へ。
総合司会としてライブを盛り上げた2人。光一は、「やっぱり若いグループだとファンも若い子が多いじゃない。そういう若い子が思わず漏れ出ちゃう声を押さえながらも楽しんでる姿がとても素敵な空間でした」と話す。
これに剛は「こういう姿勢をもっと世の中の人に見てもらいたい。ほかのアーティストの人たちもやればやるほど、いろいろ言われたりするけど、一生懸命にやってるやんか。イメージが先行して言いたくなる気持ちは分かるけど、今を一緒に生きてるんだから、エンターテインメントを通して、1つになれている事実も知ってもらいたいと思う」と訴えた。
その一方で、「1グループの人数も多いからね、お年玉がえげつない。昨日だと我々が一番上になっちゃったから、そうなるじゃない。デビューしてない子達もいるからね。計算していく段階で、もうしんどかったよね」と剛が切り出すと、光一も「すんげー出費だった」と声を合わせて、年長グループの役割の大変さも笑いながら語っていた。
——コロナ禍で変わった「楽曲の響き方」
また、コロナ禍で自分たちの楽曲の響き方も変わってきたという。
「雪白の月」を歌い終えると、光一が「この曲が収録されたのはコロナ前だったけど、音楽や歌詞がすべてそこに寄り添っているように聞こえる部分があるよね」と感想を話すと、剛も「別れの曲でラブソングなんだけど、好きな人ほど近くにいけないとか、手を繋げないとか抱きしめられないとか。ラブソングのなかにあるそういうのが、不思議な響き方をしてきちゃうなと思う」とうなずいた。
そして、剛が吉田拓郎の新曲のアレンジ発注を受けていることを明かしたうえで、「拓郎さんがコロナを経験してきて感じたことが色濃く出てる。ちょっと悲しいフレーズがポロッと入ってたりしていて、家で泣きそうになっちゃって」と言うと、光一は「わかる。拓郎さんに作ってもらった『全部だきしめて』も今聴くと泣けるし、キュンキュンしちゃう」と話す。
それに対して、「当時我々は暗かったですからねえ。年取ったんですね、早い話」と、2人が笑い合う姿が印象的だった。
25円でCMに出演!?
25周年イヤーには、様々なプロジェクトが用意されていることも発表され、その1つが、KinKi Kidsが契約料25円(税別)でCM出演するというもの。また、このCMで流れる楽曲は久しぶりに2人が作詞作曲を担当する。
剛は「コロナ禍で音楽を続けられなくなって辞めた仲間もいるし、生活環境が変わってしまった会社の方々もたくさんいると思うので。今年から盛り上げて明るい時代にしたいなっていう想いをその会社や商品と一緒に伝えていければいい」と語り、光一も「KinKiって出演料高いんでしょって思われていた方も、本当に25円で出ますから。商店街の一角にある練り物屋さんのCMでも全然やります。事務所が引いて、その二等分が僕らのギャラですからね(笑)。僕らも25周年なのでたくさんの方に協力したいし、ありがとうの恩返しをしたい」とコメントした。
さらに他のプロジェクトについては、光一が「すべて形にするのは難しいかもしれないけど、それらが形になったら喜んでもらえると思うので楽しみに待っていてください!」と呼びかけた。
ファンに直接伝えた25周年の感謝
ライブも終盤戦。新年に相応しい楽曲「Happy Happy Greeting」や、「愛のかたまり」「Family~ひとつになること」を披露した。
続いて、ステージ中央の大型モニターに、KinKi Kidsのデビューから現在に至るまでの楽曲やライブ映像が流れると、ハンカチで涙を拭うファンの姿も多かった。
映像の終わりとともに「Anniversary」を歌い始める。さらに曲の途中でステージの大型モニターが開いて、オーケストラが登場。その重厚な演奏とKinKi Kidsのハーモニーが重なり、東京ドームを包み込んでいった。
ライブの最後の挨拶には、ファンと共にあった25周年に感謝の想いが溢れていた。
光一「貴重な元旦という日に、しかもこんな急遽なお知らせにも関わらず、参加していただいたことに心から感謝を申し上げたいと思います。私事ですが、毎年(元日の)誕生日を祝ってもらえることが嬉しいことですし、なによりも2022年はKinKi Kidsにとって25周年だということ。その感謝を多方面の方々に伝えていくことかなと思っております。2人の活動も増えていくと思いますし、そういった時間をみなさんと共有していければいいなと思っておりますので、25周年のその先もどうか我々について来てほしいなと思います」
剛「僕たちは今までいろんなステージに立ってきました。そして、色んな時代を歩いてきました。そのときに、いつも傍にいてくださったのは、応援してくださる皆さん。そんな皆さんにも家庭ができたり、月日はどんどん移り変わっていって。それでも、こうして一緒に居てくださる方たちがいて、大変な時代のなかでKinKi Kidsと一緒に時間を過ごしてくださる方がこんなにいるんだということに幸せに感じていますし、感謝しています。2022年はみんなにとっても、僕らにとっても、愛の一年になるといいなと思っています。一緒に歩いていきましょう!」
そしてラストナンバーに選んだのは、デビュー曲「硝子の少年」。オーケストラとピアノの演奏に乗せて、KinKi Kidsの歌声がペンライトの揺れる会場に染み渡っていった。
どんな状況下でも、与えられた環境で最大限のエンターテインメントを提供する。2時間20分の贅沢な空間を堪能したライブだった。2人のプロとしての姿勢と想いに感謝を伝えるように、幕が下りたあとも、しばらく拍手は鳴りやまなかった。
取材・文/吉岡 俊
KinKi Kidsが伝えたエンターテインメントへの思い
https://t.cn/A6JLSFPJ
今年、CDデビューから25周年を迎えたKinKi Kidsが、6年ぶりとなる元日の東京ドームコンサートを開催した。
1998年に初めて東京ドームでのライブを行ってから、今回で24回、公演回数は59回となり、自身の持つ「単独アーティストによる東京ドーム最多公演数」の記録を更新。そんなメモリアルなライブは、コロナ禍の影響もあり、ジャニーズでは異例のステージだった。
——キンキらしいやりとりに笑いも
舞台上には、ピンスポットが当たったグランドピアノ一台。1曲目「新しい時代」のイントロを弾き始めると2人が登場した。
曲終わりには、光一が「さて、新しい時代が始まりました。こうして急遽決まった我々のコンサートなんですけど、こんなにも来ていただいてありがとうございます」と挨拶。
そんな姿を横で見つめていた剛は、「まま、座れば?」と光一に言いながら先にイスに座り始めると、「君の家みたいな言い方しないでくれる(笑)」とツッコミ。キンキらしいやりとりに観客から笑いがこぼれた。
今回のライブは昨年11月に発表されてから、準備期間があまり取れないなかで進められた。結果的にピアノ一本で行うことに、光一は「ものすごい贅沢な使い方じゃないですか。今回はもうピアノ演奏者の園田さん頼りだからね」と笑いながら話すと、剛は「ただ我々も女性でいうと、ノーメイクの素顔に近い状態ですよ」とコメント。
プレッシャーを感じている様子を見せながらも、剛が「ピアノ1本だから、いつもとは違う歌に聞こえると思う。いかにプロだっていうところを見せますよ」と意気込む。その後、「to Heart」「スワンソング」をピアノアレンジのバージョンで披露した。
——コロナ禍でのライブエンターテイメントへの思い
MCでは、このライブの前日に同場所で2年ぶりに行われた「ジャニーズカウントダウンコンサート」の話題へ。
総合司会としてライブを盛り上げた2人。光一は、「やっぱり若いグループだとファンも若い子が多いじゃない。そういう若い子が思わず漏れ出ちゃう声を押さえながらも楽しんでる姿がとても素敵な空間でした」と話す。
これに剛は「こういう姿勢をもっと世の中の人に見てもらいたい。ほかのアーティストの人たちもやればやるほど、いろいろ言われたりするけど、一生懸命にやってるやんか。イメージが先行して言いたくなる気持ちは分かるけど、今を一緒に生きてるんだから、エンターテインメントを通して、1つになれている事実も知ってもらいたいと思う」と訴えた。
その一方で、「1グループの人数も多いからね、お年玉がえげつない。昨日だと我々が一番上になっちゃったから、そうなるじゃない。デビューしてない子達もいるからね。計算していく段階で、もうしんどかったよね」と剛が切り出すと、光一も「すんげー出費だった」と声を合わせて、年長グループの役割の大変さも笑いながら語っていた。
——コロナ禍で変わった「楽曲の響き方」
また、コロナ禍で自分たちの楽曲の響き方も変わってきたという。
「雪白の月」を歌い終えると、光一が「この曲が収録されたのはコロナ前だったけど、音楽や歌詞がすべてそこに寄り添っているように聞こえる部分があるよね」と感想を話すと、剛も「別れの曲でラブソングなんだけど、好きな人ほど近くにいけないとか、手を繋げないとか抱きしめられないとか。ラブソングのなかにあるそういうのが、不思議な響き方をしてきちゃうなと思う」とうなずいた。
そして、剛が吉田拓郎の新曲のアレンジ発注を受けていることを明かしたうえで、「拓郎さんがコロナを経験してきて感じたことが色濃く出てる。ちょっと悲しいフレーズがポロッと入ってたりしていて、家で泣きそうになっちゃって」と言うと、光一は「わかる。拓郎さんに作ってもらった『全部だきしめて』も今聴くと泣けるし、キュンキュンしちゃう」と話す。
それに対して、「当時我々は暗かったですからねえ。年取ったんですね、早い話」と、2人が笑い合う姿が印象的だった。
25円でCMに出演!?
25周年イヤーには、様々なプロジェクトが用意されていることも発表され、その1つが、KinKi Kidsが契約料25円(税別)でCM出演するというもの。また、このCMで流れる楽曲は久しぶりに2人が作詞作曲を担当する。
剛は「コロナ禍で音楽を続けられなくなって辞めた仲間もいるし、生活環境が変わってしまった会社の方々もたくさんいると思うので。今年から盛り上げて明るい時代にしたいなっていう想いをその会社や商品と一緒に伝えていければいい」と語り、光一も「KinKiって出演料高いんでしょって思われていた方も、本当に25円で出ますから。商店街の一角にある練り物屋さんのCMでも全然やります。事務所が引いて、その二等分が僕らのギャラですからね(笑)。僕らも25周年なのでたくさんの方に協力したいし、ありがとうの恩返しをしたい」とコメントした。
さらに他のプロジェクトについては、光一が「すべて形にするのは難しいかもしれないけど、それらが形になったら喜んでもらえると思うので楽しみに待っていてください!」と呼びかけた。
ファンに直接伝えた25周年の感謝
ライブも終盤戦。新年に相応しい楽曲「Happy Happy Greeting」や、「愛のかたまり」「Family~ひとつになること」を披露した。
続いて、ステージ中央の大型モニターに、KinKi Kidsのデビューから現在に至るまでの楽曲やライブ映像が流れると、ハンカチで涙を拭うファンの姿も多かった。
映像の終わりとともに「Anniversary」を歌い始める。さらに曲の途中でステージの大型モニターが開いて、オーケストラが登場。その重厚な演奏とKinKi Kidsのハーモニーが重なり、東京ドームを包み込んでいった。
ライブの最後の挨拶には、ファンと共にあった25周年に感謝の想いが溢れていた。
光一「貴重な元旦という日に、しかもこんな急遽なお知らせにも関わらず、参加していただいたことに心から感謝を申し上げたいと思います。私事ですが、毎年(元日の)誕生日を祝ってもらえることが嬉しいことですし、なによりも2022年はKinKi Kidsにとって25周年だということ。その感謝を多方面の方々に伝えていくことかなと思っております。2人の活動も増えていくと思いますし、そういった時間をみなさんと共有していければいいなと思っておりますので、25周年のその先もどうか我々について来てほしいなと思います」
剛「僕たちは今までいろんなステージに立ってきました。そして、色んな時代を歩いてきました。そのときに、いつも傍にいてくださったのは、応援してくださる皆さん。そんな皆さんにも家庭ができたり、月日はどんどん移り変わっていって。それでも、こうして一緒に居てくださる方たちがいて、大変な時代のなかでKinKi Kidsと一緒に時間を過ごしてくださる方がこんなにいるんだということに幸せに感じていますし、感謝しています。2022年はみんなにとっても、僕らにとっても、愛の一年になるといいなと思っています。一緒に歩いていきましょう!」
そしてラストナンバーに選んだのは、デビュー曲「硝子の少年」。オーケストラとピアノの演奏に乗せて、KinKi Kidsの歌声がペンライトの揺れる会場に染み渡っていった。
どんな状況下でも、与えられた環境で最大限のエンターテインメントを提供する。2時間20分の贅沢な空間を堪能したライブだった。2人のプロとしての姿勢と想いに感謝を伝えるように、幕が下りたあとも、しばらく拍手は鳴りやまなかった。
取材・文/吉岡 俊
【#小镇青年的追梦赤子心#】
出生农村、家庭贫困、初中文化……拿了一手“烂牌”,是不是就只能甘于平凡,与成功“绝缘”?“小镇青年”潘本峰的创业故事,会告诉你答案。
今年11月26日,韵达快递芜湖分拨中心负责人潘本峰以全票当选为芜湖市快递协会会长。这位出生芜湖农村的“小镇青年”,从乡镇投递员做起,用十几年的努力,实现了人生的飞跃。
儿时梦想 做传递快乐的“信使”
潘本峰出生在芜湖县红杨镇万村,父母都是农民。从小家里很穷,潘本峰却很乐观,别人有什么事,他都热心帮忙。
潘本峰回想童年时光,美好的回忆似乎总是伴随着一串“叮铃铃”的响声。身穿墨绿制服,骑着自行车的乡村邮递员,从大大的邮包中抽出家人期待已久的远方来信或者亲戚邮寄的特产。晚上灯光下,家人聚在一起读信、拆包裹,那种兴奋雀跃的幸福感觉深深刻在他的脑海里。从儿时开始,潘本峰就对邮递员的工作产生了向往,他也想成为那个走街串巷、投递快乐的“信使”。
“做了一个月的饭” 让梦想成真了
家庭条件所限,潘本峰19岁就踏上了外出打工之路。异地服装厂的工作很辛苦,常常加班至晚上11点,打工的辛苦他都能承受,就是常常想起儿时的梦想。而潘本峰自己都没想到,自己的梦想竟然能成真。谈起“打工青年”如何变身“乡村投递员”的过程,潘本峰自己都笑了,“我给人家烧了一个月的饭”。
2008年,婚后为了就近照料家庭,潘本峰辞职回乡。在跑出租车的过程中,他结识了邮政局的工作人员,得知他们缺少做饭人员,潘本峰心想,“机会来了”。
“我中午不回家,就去给他们做饭,顺便了解他们工作的内容。”通过“打入内部”,小伙热心、诚恳又能吃苦的品质得到了大家的一致认可,他们向县公司推荐了潘本峰。2010年,潘本峰穿上了梦寐以求的邮政制服,骑上崭新的摩托车,成为了县邮政局投递部的一员,从此踏入了快递行业,奔波在乡镇道路上,热心地为邻里们服务。
“热心肠”有回报 他看到了商机
工资虽然不高,却是自己热爱的工作,潘本峰每日给村民们投送报纸、邮寄信件。村镇老人多,不会写信的,他帮着写,不会寄包裹的,他帮着邮寄,代办事务、取送货物,热心小潘乐于助人不求回报、言出必行,成了村民们信赖的人。2013年潘本峰光荣入党,他更加热心尽责地为村民们服务。
潘本峰发现,村民对快递的需求在不断上升,网络购物也在乡村青年中兴起。而包裹只能送到县城,镇里的人取件不方便,有时候要跑几十公里去取。为了方便村民,潘本峰开起了“乡镇快递代办点”。随着电商购物节的出现,快递代办点的业务量陡增,潘本峰深切感受到快递行业的机遇来了。
看准机遇借钱也要干 大不了从头再来
“做快递不仅迎合发展趋势,也能为民服务,符合我的本心。”2014年,韵达芜湖县快递公司对外转让,潘本峰心动了,“当时我只有10万元的积蓄,缺口还有好几十万,压力的确很大,但是我对自己说,就算失败了,大不了就从头开始”。潘本峰下定决心后,开始转行创业,2014年3月,他成为当时韵达快递芜湖县公司的“掌门人”。
事业发展不会一帆风顺。创业的第一年,潘本峰处于创业摸索初期,经营方面也面临巨大的挑战。“压力大得晚上都睡不着,最困难的时候,有朋友雪中送炭,还得到了政府的支持”。
公司遇到困难,他也坚持把员工工资按时发放,因为一贯的诚信办事,潘本峰的人品得到了认可,一位东北做电商的朋友借给他30万元,并要求“不打借条”,让潘本峰感激得不知说什么好。当时政府出台了一系列扶持就业创业的政策,潘本峰入选了芜湖县2016年返乡创业之星。“这项荣誉给了我鼓励,也让我感受到责任,无论多难,都要把企业做好,才能成就自己,回馈家乡。”
熬过低谷事业起飞他不忘回报社会
2016年,村级电商迅速发展,快递发展的触角也随之伸到了农村地区,潘本峰的县域快递事业迎来了起飞的机遇。潘本峰终于尝到了奋斗的甜头,不仅还清了债务,还买了房买了车,而潘本峰对快递事业又有了新的目标。
2017年,他把事业的重心从县域转到了市区,成为了韵达快运芜湖分拨中心的负责人,2020年1月,潘本峰的成绩得到了行业的肯定,他被任命为韵达快递芜湖分拨中心负责人,除此之外,他还收获了“优秀共产党员”等多项荣誉。
事业有成,不忘回报社会。无论是汛情还是疫情,他总是筹集物资、冲在救灾最前线。多年来,这位从农村走出来的青年一直保持着诚信质朴的品质和为民服务的初心。
从乡村投递员到成为芜湖快递行业的领军人物,小小的梦想也随着他的奋斗,长成了更高远的理想:立足本职服务城市发展,营造更加公平有序的快递市场环境,以更多形式关爱快递小哥合法权益……
“出发之前,梦想永远都是梦想,只有上路之后,努力拼搏,梦想才有可能成为现实。”
大江晚报记者 顾娅 文 汪武 摄
出生农村、家庭贫困、初中文化……拿了一手“烂牌”,是不是就只能甘于平凡,与成功“绝缘”?“小镇青年”潘本峰的创业故事,会告诉你答案。
今年11月26日,韵达快递芜湖分拨中心负责人潘本峰以全票当选为芜湖市快递协会会长。这位出生芜湖农村的“小镇青年”,从乡镇投递员做起,用十几年的努力,实现了人生的飞跃。
儿时梦想 做传递快乐的“信使”
潘本峰出生在芜湖县红杨镇万村,父母都是农民。从小家里很穷,潘本峰却很乐观,别人有什么事,他都热心帮忙。
潘本峰回想童年时光,美好的回忆似乎总是伴随着一串“叮铃铃”的响声。身穿墨绿制服,骑着自行车的乡村邮递员,从大大的邮包中抽出家人期待已久的远方来信或者亲戚邮寄的特产。晚上灯光下,家人聚在一起读信、拆包裹,那种兴奋雀跃的幸福感觉深深刻在他的脑海里。从儿时开始,潘本峰就对邮递员的工作产生了向往,他也想成为那个走街串巷、投递快乐的“信使”。
“做了一个月的饭” 让梦想成真了
家庭条件所限,潘本峰19岁就踏上了外出打工之路。异地服装厂的工作很辛苦,常常加班至晚上11点,打工的辛苦他都能承受,就是常常想起儿时的梦想。而潘本峰自己都没想到,自己的梦想竟然能成真。谈起“打工青年”如何变身“乡村投递员”的过程,潘本峰自己都笑了,“我给人家烧了一个月的饭”。
2008年,婚后为了就近照料家庭,潘本峰辞职回乡。在跑出租车的过程中,他结识了邮政局的工作人员,得知他们缺少做饭人员,潘本峰心想,“机会来了”。
“我中午不回家,就去给他们做饭,顺便了解他们工作的内容。”通过“打入内部”,小伙热心、诚恳又能吃苦的品质得到了大家的一致认可,他们向县公司推荐了潘本峰。2010年,潘本峰穿上了梦寐以求的邮政制服,骑上崭新的摩托车,成为了县邮政局投递部的一员,从此踏入了快递行业,奔波在乡镇道路上,热心地为邻里们服务。
“热心肠”有回报 他看到了商机
工资虽然不高,却是自己热爱的工作,潘本峰每日给村民们投送报纸、邮寄信件。村镇老人多,不会写信的,他帮着写,不会寄包裹的,他帮着邮寄,代办事务、取送货物,热心小潘乐于助人不求回报、言出必行,成了村民们信赖的人。2013年潘本峰光荣入党,他更加热心尽责地为村民们服务。
潘本峰发现,村民对快递的需求在不断上升,网络购物也在乡村青年中兴起。而包裹只能送到县城,镇里的人取件不方便,有时候要跑几十公里去取。为了方便村民,潘本峰开起了“乡镇快递代办点”。随着电商购物节的出现,快递代办点的业务量陡增,潘本峰深切感受到快递行业的机遇来了。
看准机遇借钱也要干 大不了从头再来
“做快递不仅迎合发展趋势,也能为民服务,符合我的本心。”2014年,韵达芜湖县快递公司对外转让,潘本峰心动了,“当时我只有10万元的积蓄,缺口还有好几十万,压力的确很大,但是我对自己说,就算失败了,大不了就从头开始”。潘本峰下定决心后,开始转行创业,2014年3月,他成为当时韵达快递芜湖县公司的“掌门人”。
事业发展不会一帆风顺。创业的第一年,潘本峰处于创业摸索初期,经营方面也面临巨大的挑战。“压力大得晚上都睡不着,最困难的时候,有朋友雪中送炭,还得到了政府的支持”。
公司遇到困难,他也坚持把员工工资按时发放,因为一贯的诚信办事,潘本峰的人品得到了认可,一位东北做电商的朋友借给他30万元,并要求“不打借条”,让潘本峰感激得不知说什么好。当时政府出台了一系列扶持就业创业的政策,潘本峰入选了芜湖县2016年返乡创业之星。“这项荣誉给了我鼓励,也让我感受到责任,无论多难,都要把企业做好,才能成就自己,回馈家乡。”
熬过低谷事业起飞他不忘回报社会
2016年,村级电商迅速发展,快递发展的触角也随之伸到了农村地区,潘本峰的县域快递事业迎来了起飞的机遇。潘本峰终于尝到了奋斗的甜头,不仅还清了债务,还买了房买了车,而潘本峰对快递事业又有了新的目标。
2017年,他把事业的重心从县域转到了市区,成为了韵达快运芜湖分拨中心的负责人,2020年1月,潘本峰的成绩得到了行业的肯定,他被任命为韵达快递芜湖分拨中心负责人,除此之外,他还收获了“优秀共产党员”等多项荣誉。
事业有成,不忘回报社会。无论是汛情还是疫情,他总是筹集物资、冲在救灾最前线。多年来,这位从农村走出来的青年一直保持着诚信质朴的品质和为民服务的初心。
从乡村投递员到成为芜湖快递行业的领军人物,小小的梦想也随着他的奋斗,长成了更高远的理想:立足本职服务城市发展,营造更加公平有序的快递市场环境,以更多形式关爱快递小哥合法权益……
“出发之前,梦想永远都是梦想,只有上路之后,努力拼搏,梦想才有可能成为现实。”
大江晚报记者 顾娅 文 汪武 摄
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