戦国時代の〝軍師〟山本勘助は「呪術師」だったのか⁉【呪術についての疑問】
戦国時代、武将たちの横で活躍した軍師たちは「呪術」を使っていたという説がある。生死をかけた戦いを繰り広げた戦国の世にあって、呪術はどのような存在だったのだろうか?果たして真実はどうだったのだろうか。
■呪術に頼った軍師も多かった
戦国大名には呪術を完全否定した者は一人もいない。一向宗門徒の包囲殲滅を躊躇(ためら)わず、比叡山延暦寺(ひえいざんえんりゃくじ)を焼き討ちした織田信長(おだのぶなが)にしてから、桶狭間(おけはざま)の戦い直前に熱田神宮(あつたじんぐう)で戦勝祈願を行い、戦後に御礼として「瓦葺の塀」を寄進したと伝えられる。
戦国大名の呪術への依存度は非常に高く、必ずと言ってよいほど、どの大名のもとにも軍配者が置かれていた。兵法にとどまらず、出陣や戦闘開始の日時を占い、陣地の位置や方角の良し悪しを見極め、天候の予測までこなす器用者で、現在は軍師の語で呼ばれる。豊後の大友宗麟(おおともそうりん)に仕えた角隅石宗(つのくませきそう)、薩摩の島津義久(しまづよしひさ)に仕えた川田義朗(かわだよしあき)、甲斐の武田信玄(たけだしんげん)に仕えた判兵庫(ばんのひょうご)などが有名どころで、江戸時代初期に編纂された軍書の『甲陽軍鑑(こうようぐんかん)』によれば、判兵庫は安倍晴明(あべのせいめい)の流れを汲む陰陽師で花押占いと印判占いに優れていたという。
心底信じていたのか、験担ぎやパフォーマンスであったかは判別できないが、死と隣り合わせの日常であれば、最終的に神仏や呪術にすがりたくなるのもわかる。
監修・文/島崎晋
歴史人2023年6月号「鬼と呪術の日本史」より
歴史人編集部
戦国時代、武将たちの横で活躍した軍師たちは「呪術」を使っていたという説がある。生死をかけた戦いを繰り広げた戦国の世にあって、呪術はどのような存在だったのだろうか?果たして真実はどうだったのだろうか。
■呪術に頼った軍師も多かった
戦国大名には呪術を完全否定した者は一人もいない。一向宗門徒の包囲殲滅を躊躇(ためら)わず、比叡山延暦寺(ひえいざんえんりゃくじ)を焼き討ちした織田信長(おだのぶなが)にしてから、桶狭間(おけはざま)の戦い直前に熱田神宮(あつたじんぐう)で戦勝祈願を行い、戦後に御礼として「瓦葺の塀」を寄進したと伝えられる。
戦国大名の呪術への依存度は非常に高く、必ずと言ってよいほど、どの大名のもとにも軍配者が置かれていた。兵法にとどまらず、出陣や戦闘開始の日時を占い、陣地の位置や方角の良し悪しを見極め、天候の予測までこなす器用者で、現在は軍師の語で呼ばれる。豊後の大友宗麟(おおともそうりん)に仕えた角隅石宗(つのくませきそう)、薩摩の島津義久(しまづよしひさ)に仕えた川田義朗(かわだよしあき)、甲斐の武田信玄(たけだしんげん)に仕えた判兵庫(ばんのひょうご)などが有名どころで、江戸時代初期に編纂された軍書の『甲陽軍鑑(こうようぐんかん)』によれば、判兵庫は安倍晴明(あべのせいめい)の流れを汲む陰陽師で花押占いと印判占いに優れていたという。
心底信じていたのか、験担ぎやパフォーマンスであったかは判別できないが、死と隣り合わせの日常であれば、最終的に神仏や呪術にすがりたくなるのもわかる。
監修・文/島崎晋
歴史人2023年6月号「鬼と呪術の日本史」より
歴史人編集部
徳川家康の嫡男・松平信康と正室・築山殿の死にまつわる謎が残る3つの通説
徳川家康は天正7年(1579年)に正室・築山殿と嫡男・松平信康の死に向き合っている。この死にはさまざまな謎があったという。
■家康の「家族の処刑」という過酷な出来事にまつわる謎
徳川家康の嫡男・松平信康(まつだいらのぶやす)は21歳の若さで死ななければならなかった。しかも母の築山殿(つきやまどの)と相前後してという異常な状況の中で、だ。その原因については通説がいくつかある。
(一)築山殿(家康正室、信康の母)の甲斐・武田家内応と信康の加担を咎めた織
田信長(おだのぶなが)の命令による
(二)信長による信忠(のぶただ/信長嫡男)のライバルの排除
(三)秀忠派の家臣による信康排除
これをさらに潤色(じゅんしょく)する形で「信康が正室・お五徳の侍女である小侍従を斬り、口を手で裂いた」「僧侶を馬でひきずって殺した」「少しでも意に背く者があればたちまち手討ちにした」などとも伝わっているが、すべて根拠は無い。江戸幕府の御用史家たちが息子を死なせた家康を弁護するため、ことさらに信康を貶(おとし)めただけだ。
一次史料として確認できるのは、後年の家康が「(讒言によって)父子の仲平たいらならざりし」と後悔していた事、秀忠の妻・お江与(えよ)に対して「(信康を)気儘に育て(中略)、後には親子の争ひの様になり候て、毎度申し候ても聞入れず」却って親を恨む様になった、と評するように、浜松・岡崎と離れて住まう父子が、周囲の人間の影響もあってわがまま気味に育った信康との関係が悪くなったという事。だが信康の場合は、やはり「武田家内応」が命取りとなったようだ。と言っても、信康自身や築山殿が首謀者という訳では無い。事件の際、信康を支える岡崎の徳川家臣団の多くが粛清・追放されている所を見ると、天正2年に発生した大賀弥四郎(おおがやしろう)事件(岡崎の高級官僚だった弥四郎が武田方に内通し武田軍を岡崎城へ引き入れようとしたが未遂に終わる)の様に岡崎家臣団中の家康に対する不満分子が信康を担いで何らかの行動に出ようという兆候はあったのだろう。
これに信康の正室・五徳(ごとく/徳姫)の問題も絡んでくる。夫婦の仲が悪いため彼女が信長に十二カ条からなる信康とその母・築山殿の弾劾状を送ったというが、その実物は無く内容も完全には伝わらない。
ただ、比較的信用できる『前田本安土日記』は「逆心の雑説」があった為に徳川側から信長へ信康の処分を上申して来たとしているのは確かだ。この時期信長は「雑説」を気にしてか毎年鷹狩りの名目で三河に赴おもむいていたのだが、事件以後は足を向けていないのも何かを暗示している気がする。
監修・文/橋場日月
歴史人2022年8月号『徳川家康 天下人への決断』より
歴史人編集部
徳川家康は天正7年(1579年)に正室・築山殿と嫡男・松平信康の死に向き合っている。この死にはさまざまな謎があったという。
■家康の「家族の処刑」という過酷な出来事にまつわる謎
徳川家康の嫡男・松平信康(まつだいらのぶやす)は21歳の若さで死ななければならなかった。しかも母の築山殿(つきやまどの)と相前後してという異常な状況の中で、だ。その原因については通説がいくつかある。
(一)築山殿(家康正室、信康の母)の甲斐・武田家内応と信康の加担を咎めた織
田信長(おだのぶなが)の命令による
(二)信長による信忠(のぶただ/信長嫡男)のライバルの排除
(三)秀忠派の家臣による信康排除
これをさらに潤色(じゅんしょく)する形で「信康が正室・お五徳の侍女である小侍従を斬り、口を手で裂いた」「僧侶を馬でひきずって殺した」「少しでも意に背く者があればたちまち手討ちにした」などとも伝わっているが、すべて根拠は無い。江戸幕府の御用史家たちが息子を死なせた家康を弁護するため、ことさらに信康を貶(おとし)めただけだ。
一次史料として確認できるのは、後年の家康が「(讒言によって)父子の仲平たいらならざりし」と後悔していた事、秀忠の妻・お江与(えよ)に対して「(信康を)気儘に育て(中略)、後には親子の争ひの様になり候て、毎度申し候ても聞入れず」却って親を恨む様になった、と評するように、浜松・岡崎と離れて住まう父子が、周囲の人間の影響もあってわがまま気味に育った信康との関係が悪くなったという事。だが信康の場合は、やはり「武田家内応」が命取りとなったようだ。と言っても、信康自身や築山殿が首謀者という訳では無い。事件の際、信康を支える岡崎の徳川家臣団の多くが粛清・追放されている所を見ると、天正2年に発生した大賀弥四郎(おおがやしろう)事件(岡崎の高級官僚だった弥四郎が武田方に内通し武田軍を岡崎城へ引き入れようとしたが未遂に終わる)の様に岡崎家臣団中の家康に対する不満分子が信康を担いで何らかの行動に出ようという兆候はあったのだろう。
これに信康の正室・五徳(ごとく/徳姫)の問題も絡んでくる。夫婦の仲が悪いため彼女が信長に十二カ条からなる信康とその母・築山殿の弾劾状を送ったというが、その実物は無く内容も完全には伝わらない。
ただ、比較的信用できる『前田本安土日記』は「逆心の雑説」があった為に徳川側から信長へ信康の処分を上申して来たとしているのは確かだ。この時期信長は「雑説」を気にしてか毎年鷹狩りの名目で三河に赴おもむいていたのだが、事件以後は足を向けていないのも何かを暗示している気がする。
監修・文/橋場日月
歴史人2022年8月号『徳川家康 天下人への決断』より
歴史人編集部
なにものでもなくたって夢を描こう
真っ白なキャンバスに足してゆけば
ごちゃごちゃだった絵もいつの日か
きっと壮大なブーケに変わってゆく
味気ない日々はいつもなにかすぎて
風が吹いて
彩られてゆく日々の先に待つのは
知らない景色だ
掴んでみせるさ夢舞台
マイク一本で
鳴り響いた始まりの鐘の音色
ゆっくりと歩いてく道の途中
さぁ小さな幸せを見つけよう
そう必ずそばにあるから
なにものでもなくたって夢を描こう
真っ白なキャンバスに足してゆけば
ごちゃごちゃだった絵もいつの日か
きっと壮大なブーケに変わってゆく
降り頻る雨の日も澄み渡る晴れの日も
明日の虹に変わる
無くさないであるがままの喜びと
何気ない日々の中の幸せを
人混みの中でも星を見る今日の光景は
果てしない未来へと
なにものでもなくたって夢を描こう
真っ白なキャンバスに足してゆけば
ごちゃごちゃだった絵もいつの日か
きっと壮大なブーケに変わってゆく
この歌よ 風に乗れ
真っ白なキャンバスに足してゆけば
ごちゃごちゃだった絵もいつの日か
きっと壮大なブーケに変わってゆく
味気ない日々はいつもなにかすぎて
風が吹いて
彩られてゆく日々の先に待つのは
知らない景色だ
掴んでみせるさ夢舞台
マイク一本で
鳴り響いた始まりの鐘の音色
ゆっくりと歩いてく道の途中
さぁ小さな幸せを見つけよう
そう必ずそばにあるから
なにものでもなくたって夢を描こう
真っ白なキャンバスに足してゆけば
ごちゃごちゃだった絵もいつの日か
きっと壮大なブーケに変わってゆく
降り頻る雨の日も澄み渡る晴れの日も
明日の虹に変わる
無くさないであるがままの喜びと
何気ない日々の中の幸せを
人混みの中でも星を見る今日の光景は
果てしない未来へと
なにものでもなくたって夢を描こう
真っ白なキャンバスに足してゆけば
ごちゃごちゃだった絵もいつの日か
きっと壮大なブーケに変わってゆく
この歌よ 風に乗れ
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