食品メーカーの敏腕営業マン・稲葉十吉(相葉雅紀)は、妻・美沙子(本仮屋ユイカ)、息子・百太(木村優来)と、幸せな生活を送っていた。そんな彼はある休日、部下である山本照久(深澤辰哉)の失敗の尻拭いを上司の遠藤保(勝村政信)から押し付けられ、しぶしぶ怒っている相手先に向かう。営業部のエースらしく、無事にピンチを切り抜けた十吉だが、帰り道に、突然目の前に飛び出してきた人を車で轢いてしまう。それは、非合法組織《コンビニ》所属の殺し屋・二丁と銃撃戦を繰り広げた悪しき組織の構成員だった。二丁自身も深手を負っていたが、彼はもう1人の構成員にとどめを刺す。やがて二丁は、十吉の車の助手席に乗り込み、彼に真の標的の所在を伝え、その標的の殺害と、監禁されている恋人・ちなつ(山本舞香)の救出を命令。抵抗する十吉だったが、二丁は《コンビニ》に電話し「今日中に標的が死なず、自分の女が助からなかった時は、稲葉十吉とその家族を皆殺しにしてくれ」と依頼するのだった。そして二丁は、拳銃を十吉に託し、助手席で殺し屋としての心得をうわごとのように唱えて…。十吉は警察へ行くことも考えるが、家族を巻き込みたくない一心で、標的のもとへと向かうのだった。
世界の常識では日本の「終戦記念日」8月15日には何の意味もない…日本人が誰も知らない「終戦の日」
日本には、国民はもちろん、首相や官僚でさえもよくわかっていない「ウラの掟」が存在し、社会全体の構造を歪めている。そうした「ウラの掟」のほとんどは、アメリカ政府そのものと日本とのあいだではなく、じつは米軍と日本のエリート官僚とのあいだで直接結ばれた、占領期以来の軍事上の密約を起源としている。最高裁・検察・外務省の「裏マニュアル」を参照しながら、日米合同委員会の実態に迫り、日本の権力構造を徹底解明する。
【写真】なぜアメリカ軍は「日本人」だけ軽視するのか…その「衝撃的な理由」
*本記事は矢部 宏治『知ってはいけない 隠された日本支配の構造』(講談社現代新書)から抜粋・再編集したものです。
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重要な文書は、最初すべて英語で作成する
本書でいま、私がお伝えしているような大きな日本の歪みについて、多くの方が関心を持つようになったきっかけは、2012年にベストセラーとなった孫崎享氏の『戦後史の正体』だったかもしれません。
外務省の国際情報局長という、インテリジェンス部門のトップを務めた孫崎氏は、同書の第1章を、次のような少し意外な問いかけから始めています。
「日本はいつ、第二次大戦を終えたのでしょう」
こう聞くと、ほとんどの人が、「1945年8月15日に決まっているじゃないか」というが、それは違う。8月15日が「終戦記念日」だというのは、世界の常識とは、まったくかけ離れているのだと孫崎氏はいうのです。
「私は米国や英国の外交官に友人がたくさんいます。彼らに「日本と連合国の戦争がいつ終わったか」と聞くと、だれも8月15日とはいいません。かならず9月2日という答えが返ってくるのです」
世界の常識からいうと、日本の「終戦記念日」である8月15日には何の意味もない。
国際法上、意味があるのは日本がミズーリ号で「降伏文書」にサインし、「ポツダム宣言」を正式に受け入れた9月2日だけだからです。
それなのに、なぜ日本では、9月2日のことを誰も知らないのかというと、
「日本は8月15日を戦争の終わりと位置づけることで、「降伏」というきびしい現実から目をそらしつづけているのです。
「日本は負けた。無条件降伏した」
本当はここから新しい日本を始めるべきだったのです。しかし「降伏」ではなく「終戦」という言葉を使うことで、戦争に負けた日本のきびしい状況について、目をつぶりつづけてきた。それが日本の戦後だったといえるでしょう」
自分たちに都合のいい主観的な歴史
いま読み返してみても、じつにあざやかな書き出しだったと思います。
私も『戦後史の正体』の編集を担当するまでは、「降伏文書」や「ポツダム宣言」について、もちろん一度も読んだことがありませんでした。孫崎氏が教授を務めた防衛大学校でも、とくに「降伏文書」は授業でほとんど教えられていなかったそうですから、おそらく普通の日本人は誰も読んだことがないといっていいでしょう。
けれども、敗戦にあたって日本がどういう法的義務を受け入れたかを書いた「ポツダム宣言」と「降伏文書」は、もちろんその後の日本にとって、なにより重要な国家としてのスタートラインであるはずです。
にもかかわらず、「戦後日本」という国はそうやって、その出発時点(8月15日)から国際法の世界を見ようとせず、ただ自分たちに都合のいい主観的な歴史だけを見て、これまで過ごしてきてしまったのです。
もっとも、もちろんそれは戦勝国であるアメリカにとってもそのほうが、都合がよかったからでもありました。もしそうでなければ、そんな勝手な解釈が許されるはずがありません。
歴史をひも解いてみると、「降伏という厳しい現実」を日本人に骨身に沁みてわからせる別のオプションのほうが、実行される可能性は、はるかに高かったのです。
それは昭和天皇自身がミズーリ号の艦上で、自ら降伏文書にサインをするというオプションでした。
天皇自身による降伏の表明
考えてみると、日本は天皇の名のもとに戦争をはじめ、また天皇は憲法上、講和を行う権限も持っていたわけですから(大日本帝国憲法・第13条)、降伏するにあたっても、本来天皇が降伏文書にサインするのが当然のなりゆきでした。
事実、ミズーリ号の調印式の7ヵ月前、1945年2月時点のアメリカの政策文書では、日本の降伏文書には昭和天皇自身がサインし、さらにそのとき、次のような宣言を行うことが想定されていたのです。
日本国天皇の宣言
「私はここに、日本と交戦中の連合国に対して、無条件降伏することを宣言する。
私は、どの地域にいるかを問わず、すべての日本国の軍隊および日本国民に対し、ただちに敵対行為を中止し、以後、連合国軍最高司令官の求めるすべての要求にしたがうよう命令する。(略)
私は本日以後、そのすべての権力と権限を、連合国軍最高司令官に委ねる」
(国務・陸軍・海軍三省調整委員会(SWNCC)文書21「日本の無条件降伏」)
天皇をつかえば、多くの命が救われる
もしもこのプランが実行されていたら、日本人が9月2日の「降伏」に目をつぶりつづけることなど、もちろん不可能だったでしょう。
けれども、日本が8月10日にポツダム宣言の受け入れを表明した直後、このプランは撤回され、天皇に代わって日本政府と軍部の代表が、2人で降伏文書にサインするプランへと変更されます。
その理由は、アメリカにとって最大の同盟国であるイギリスのアトリー首相とベヴィン外相から、バーンズ国務長官のもとに、
「天皇個人に直接降伏文書へのサインを求めることが、良い方法かどうかは疑問です」
というメッセージが届いたからでした(「アメリカ外交文書(FRUS)」1945年8月11日)。
なぜならこれから私たちは、天皇を使って、広大な地域に広がる日本軍を確実に武装解除していかなければなりません。それがアメリカ、イギリス、その他、連合国の多くの兵士たちの命を救う方法なのです、と。
つまり、今後は天皇の命令というかたちで、アジア全域にいる日本軍を武装解除させていく計画なのだから、そのためには、なるべく天皇の権威を傷つけないほうがいいというわけです。
このメッセージを本国に伝えたアメリカの駐英大使からは、その夜、イギリスのチャーチル前首相からも電話があり、そのとき彼が、
「天皇をつかえば、遠い場所で多くの兵士の命が救われる」
と確信をもってのべていたということが報告されています。
意図的に隠された昭和天皇の姿
その結果、ミズーリ号の調印式には、日本政府の代表である外務大臣・重光葵と、軍部の代表である陸軍参謀総長・梅津美治郎が2人で出席し、9月2日、降伏文書にサインすることになりました。こうしてこの一大セレモニーから、天皇の姿が意図的に隠されることになったのです。
その一方で、昭和天皇には8月21日、マニラにいるマッカーサーから英語で書かれた「布告文」が届けられました。それは本来なら天皇自身が調印式に出席して、そこで読みあげる可能性のあった、あの「日本国天皇の宣言」が、その後、アメリカ国務省のなかで何度も改訂されてできあがったものでした。
日本語に翻訳したその布告文に署名と捺印(御名御璽)をして、9月2日のミズーリ号の調印式にあわせて表明せよと指示してきた。言い換えれば、それさえやってくれれば、昭和天皇は調印式に出席することも、降伏文書にサインすることも、宣言を読みあげることも、すべてやらなくていいということになったわけです。
こうして占領期を貫く、
「最初は英語で書かれたアメリカ側の文書を、日本側が翻訳してそこに多少のアレンジを加え、最後はそれに昭和天皇がお墨付きをあたえて国民に布告する」
という基本パターンが、このときスタートすることになりました。
さらに連載記事<なぜアメリカ軍は「日本人」だけ軽視するのか…その「衝撃的な理由」>では、コウモリや遺跡よりも日本人を軽視する在日米軍の実態について、詳しく解説します。
矢部 宏治
日本には、国民はもちろん、首相や官僚でさえもよくわかっていない「ウラの掟」が存在し、社会全体の構造を歪めている。そうした「ウラの掟」のほとんどは、アメリカ政府そのものと日本とのあいだではなく、じつは米軍と日本のエリート官僚とのあいだで直接結ばれた、占領期以来の軍事上の密約を起源としている。最高裁・検察・外務省の「裏マニュアル」を参照しながら、日米合同委員会の実態に迫り、日本の権力構造を徹底解明する。
【写真】なぜアメリカ軍は「日本人」だけ軽視するのか…その「衝撃的な理由」
*本記事は矢部 宏治『知ってはいけない 隠された日本支配の構造』(講談社現代新書)から抜粋・再編集したものです。
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重要な文書は、最初すべて英語で作成する
本書でいま、私がお伝えしているような大きな日本の歪みについて、多くの方が関心を持つようになったきっかけは、2012年にベストセラーとなった孫崎享氏の『戦後史の正体』だったかもしれません。
外務省の国際情報局長という、インテリジェンス部門のトップを務めた孫崎氏は、同書の第1章を、次のような少し意外な問いかけから始めています。
「日本はいつ、第二次大戦を終えたのでしょう」
こう聞くと、ほとんどの人が、「1945年8月15日に決まっているじゃないか」というが、それは違う。8月15日が「終戦記念日」だというのは、世界の常識とは、まったくかけ離れているのだと孫崎氏はいうのです。
「私は米国や英国の外交官に友人がたくさんいます。彼らに「日本と連合国の戦争がいつ終わったか」と聞くと、だれも8月15日とはいいません。かならず9月2日という答えが返ってくるのです」
世界の常識からいうと、日本の「終戦記念日」である8月15日には何の意味もない。
国際法上、意味があるのは日本がミズーリ号で「降伏文書」にサインし、「ポツダム宣言」を正式に受け入れた9月2日だけだからです。
それなのに、なぜ日本では、9月2日のことを誰も知らないのかというと、
「日本は8月15日を戦争の終わりと位置づけることで、「降伏」というきびしい現実から目をそらしつづけているのです。
「日本は負けた。無条件降伏した」
本当はここから新しい日本を始めるべきだったのです。しかし「降伏」ではなく「終戦」という言葉を使うことで、戦争に負けた日本のきびしい状況について、目をつぶりつづけてきた。それが日本の戦後だったといえるでしょう」
自分たちに都合のいい主観的な歴史
いま読み返してみても、じつにあざやかな書き出しだったと思います。
私も『戦後史の正体』の編集を担当するまでは、「降伏文書」や「ポツダム宣言」について、もちろん一度も読んだことがありませんでした。孫崎氏が教授を務めた防衛大学校でも、とくに「降伏文書」は授業でほとんど教えられていなかったそうですから、おそらく普通の日本人は誰も読んだことがないといっていいでしょう。
けれども、敗戦にあたって日本がどういう法的義務を受け入れたかを書いた「ポツダム宣言」と「降伏文書」は、もちろんその後の日本にとって、なにより重要な国家としてのスタートラインであるはずです。
にもかかわらず、「戦後日本」という国はそうやって、その出発時点(8月15日)から国際法の世界を見ようとせず、ただ自分たちに都合のいい主観的な歴史だけを見て、これまで過ごしてきてしまったのです。
もっとも、もちろんそれは戦勝国であるアメリカにとってもそのほうが、都合がよかったからでもありました。もしそうでなければ、そんな勝手な解釈が許されるはずがありません。
歴史をひも解いてみると、「降伏という厳しい現実」を日本人に骨身に沁みてわからせる別のオプションのほうが、実行される可能性は、はるかに高かったのです。
それは昭和天皇自身がミズーリ号の艦上で、自ら降伏文書にサインをするというオプションでした。
天皇自身による降伏の表明
考えてみると、日本は天皇の名のもとに戦争をはじめ、また天皇は憲法上、講和を行う権限も持っていたわけですから(大日本帝国憲法・第13条)、降伏するにあたっても、本来天皇が降伏文書にサインするのが当然のなりゆきでした。
事実、ミズーリ号の調印式の7ヵ月前、1945年2月時点のアメリカの政策文書では、日本の降伏文書には昭和天皇自身がサインし、さらにそのとき、次のような宣言を行うことが想定されていたのです。
日本国天皇の宣言
「私はここに、日本と交戦中の連合国に対して、無条件降伏することを宣言する。
私は、どの地域にいるかを問わず、すべての日本国の軍隊および日本国民に対し、ただちに敵対行為を中止し、以後、連合国軍最高司令官の求めるすべての要求にしたがうよう命令する。(略)
私は本日以後、そのすべての権力と権限を、連合国軍最高司令官に委ねる」
(国務・陸軍・海軍三省調整委員会(SWNCC)文書21「日本の無条件降伏」)
天皇をつかえば、多くの命が救われる
もしもこのプランが実行されていたら、日本人が9月2日の「降伏」に目をつぶりつづけることなど、もちろん不可能だったでしょう。
けれども、日本が8月10日にポツダム宣言の受け入れを表明した直後、このプランは撤回され、天皇に代わって日本政府と軍部の代表が、2人で降伏文書にサインするプランへと変更されます。
その理由は、アメリカにとって最大の同盟国であるイギリスのアトリー首相とベヴィン外相から、バーンズ国務長官のもとに、
「天皇個人に直接降伏文書へのサインを求めることが、良い方法かどうかは疑問です」
というメッセージが届いたからでした(「アメリカ外交文書(FRUS)」1945年8月11日)。
なぜならこれから私たちは、天皇を使って、広大な地域に広がる日本軍を確実に武装解除していかなければなりません。それがアメリカ、イギリス、その他、連合国の多くの兵士たちの命を救う方法なのです、と。
つまり、今後は天皇の命令というかたちで、アジア全域にいる日本軍を武装解除させていく計画なのだから、そのためには、なるべく天皇の権威を傷つけないほうがいいというわけです。
このメッセージを本国に伝えたアメリカの駐英大使からは、その夜、イギリスのチャーチル前首相からも電話があり、そのとき彼が、
「天皇をつかえば、遠い場所で多くの兵士の命が救われる」
と確信をもってのべていたということが報告されています。
意図的に隠された昭和天皇の姿
その結果、ミズーリ号の調印式には、日本政府の代表である外務大臣・重光葵と、軍部の代表である陸軍参謀総長・梅津美治郎が2人で出席し、9月2日、降伏文書にサインすることになりました。こうしてこの一大セレモニーから、天皇の姿が意図的に隠されることになったのです。
その一方で、昭和天皇には8月21日、マニラにいるマッカーサーから英語で書かれた「布告文」が届けられました。それは本来なら天皇自身が調印式に出席して、そこで読みあげる可能性のあった、あの「日本国天皇の宣言」が、その後、アメリカ国務省のなかで何度も改訂されてできあがったものでした。
日本語に翻訳したその布告文に署名と捺印(御名御璽)をして、9月2日のミズーリ号の調印式にあわせて表明せよと指示してきた。言い換えれば、それさえやってくれれば、昭和天皇は調印式に出席することも、降伏文書にサインすることも、宣言を読みあげることも、すべてやらなくていいということになったわけです。
こうして占領期を貫く、
「最初は英語で書かれたアメリカ側の文書を、日本側が翻訳してそこに多少のアレンジを加え、最後はそれに昭和天皇がお墨付きをあたえて国民に布告する」
という基本パターンが、このときスタートすることになりました。
さらに連載記事<なぜアメリカ軍は「日本人」だけ軽視するのか…その「衝撃的な理由」>では、コウモリや遺跡よりも日本人を軽視する在日米軍の実態について、詳しく解説します。
矢部 宏治
嫦娥奔月
昔々嫦娥という名前のそれはそれは美しい女性がいました。彼女は后羿(こうげい)という弓矢の名手の奥さんです。
昔世界には太陽が10個もあったのだそうです。この10個の太陽に人々は苦しみ、それを救おうと后羿は9つを射落とします。そして残った太陽に毎日時間通りに昇り、時間通りに沈むように言い含めたそうです。この功績から彼は西王母から不老不死の薬をもらいます。
この薬を彼の妻嫦娥はこっそり一人で飲んでしまいます。なぜそんなことを?
ここにはいろいろな説があります。
一つは嫦娥が身勝手な女で、天に昇りたくて夫の目を盗んで一人薬を飲んでしまったという説。これによって嫦娥は罰せられ月の宮殿で一人寂しく暮らしている、というのです。また罰として嫦娥は月でガマにされてしまったという説も。
もう一つは夫の留守に悪者が不老不死の薬を盗もうとしたので仕方なく自分が飲んでしまったという説。
さらにもう一つは夫の后羿は太陽を射落とした功績で高い地位を得るのですが、そのことですっかり舞い上がり暴虐な王になってしまうのです。こんな男が不老不死になったらたまったものではないというので、嫦娥は自分がこの薬を飲んだという説です。
いずれにせよ嫦娥は夫とは離れ離れになり、一人月に住む寂しい身の上になってしまいます。
月はとても寂しい場所だったようです。でも嫦娥以外誰もいなかったかというとそんなことはありません。呉剛という男とウサギとがいました。呉剛は罪を犯し、この罪も殺人とか仙人の修行の際の罪だとかいろいろな説があるのですが、ともあれ罰されて月に送られます。ここで月桂樹の木を伐採するよう命じられるのですが、この木は切っても切ってもまた生えてくるのです。呉剛は月の中で永遠にこの木を伐り続けているのだそうです。
ウサギは嫦娥のお伴という説もあれば嫦娥の化身だという説も。日本でウサギは月で餅つきをしていますが、中国から見える月では薬をついているのです。このウサギは玉兎とか月兎とか呼ばれています。
ところでこのウサギ、別の話の中でもけっこう活躍しています。昔北京で疫病が流行ります。人々が病を癒す祈りを捧げていると、月の嫦娥がこれを見て哀れみます。そこで月兎をこの世に送るのです。するとウサギは少女の姿になって人々の病を癒していきます。やがて疫病は終息するのですが、北京の人々はこれに感謝し毎年8月15日の中秋節になると“兔儿爷 tù’éryé”という泥人形を作ってお供えをするようになったと言われます。少女なのになぜ“爷”(爺)という言葉がついているかというと、“爷”(爺)は「爺様」という意味ではなく、位の高い人・神様という意味があるからです。“兔儿爷”は月に住む神様なんですね。その後“兔儿爷”は子供たちの玩具の一つになり、今ではおめでたい民間工芸品として売られています。
昔々嫦娥という名前のそれはそれは美しい女性がいました。彼女は后羿(こうげい)という弓矢の名手の奥さんです。
昔世界には太陽が10個もあったのだそうです。この10個の太陽に人々は苦しみ、それを救おうと后羿は9つを射落とします。そして残った太陽に毎日時間通りに昇り、時間通りに沈むように言い含めたそうです。この功績から彼は西王母から不老不死の薬をもらいます。
この薬を彼の妻嫦娥はこっそり一人で飲んでしまいます。なぜそんなことを?
ここにはいろいろな説があります。
一つは嫦娥が身勝手な女で、天に昇りたくて夫の目を盗んで一人薬を飲んでしまったという説。これによって嫦娥は罰せられ月の宮殿で一人寂しく暮らしている、というのです。また罰として嫦娥は月でガマにされてしまったという説も。
もう一つは夫の留守に悪者が不老不死の薬を盗もうとしたので仕方なく自分が飲んでしまったという説。
さらにもう一つは夫の后羿は太陽を射落とした功績で高い地位を得るのですが、そのことですっかり舞い上がり暴虐な王になってしまうのです。こんな男が不老不死になったらたまったものではないというので、嫦娥は自分がこの薬を飲んだという説です。
いずれにせよ嫦娥は夫とは離れ離れになり、一人月に住む寂しい身の上になってしまいます。
月はとても寂しい場所だったようです。でも嫦娥以外誰もいなかったかというとそんなことはありません。呉剛という男とウサギとがいました。呉剛は罪を犯し、この罪も殺人とか仙人の修行の際の罪だとかいろいろな説があるのですが、ともあれ罰されて月に送られます。ここで月桂樹の木を伐採するよう命じられるのですが、この木は切っても切ってもまた生えてくるのです。呉剛は月の中で永遠にこの木を伐り続けているのだそうです。
ウサギは嫦娥のお伴という説もあれば嫦娥の化身だという説も。日本でウサギは月で餅つきをしていますが、中国から見える月では薬をついているのです。このウサギは玉兎とか月兎とか呼ばれています。
ところでこのウサギ、別の話の中でもけっこう活躍しています。昔北京で疫病が流行ります。人々が病を癒す祈りを捧げていると、月の嫦娥がこれを見て哀れみます。そこで月兎をこの世に送るのです。するとウサギは少女の姿になって人々の病を癒していきます。やがて疫病は終息するのですが、北京の人々はこれに感謝し毎年8月15日の中秋節になると“兔儿爷 tù’éryé”という泥人形を作ってお供えをするようになったと言われます。少女なのになぜ“爷”(爺)という言葉がついているかというと、“爷”(爺)は「爺様」という意味ではなく、位の高い人・神様という意味があるからです。“兔儿爷”は月に住む神様なんですね。その後“兔儿爷”は子供たちの玩具の一つになり、今ではおめでたい民間工芸品として売られています。
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