アナドスくん全実装イベント読み終わった〜いやぁ面白かった、ここからはゆっくり育成したり☆4チャレンジしたりリアタイ出来ますネヽ(=´▽`=)ノストーリーもキャラ造形も凄く立体感のある面白い群像劇でした、ゲイゲイしいアホエロゲなのに[允悲]2周年イベの全員分ワチャワチャ分岐も全部読んできた…………ジャラム、オマエ…………ザハロフに展望台デートを誘うなんてことできるんだ(´゚д゚`)…………………ちゃんと素直になっとるやん……[赞](あんまりの衝撃にずっと頭を壁にぶつけてる、イタイ

義姫
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義姫
刀剣・日本刀の専門サイト 刀剣ワールド 歴女必見!戦国武将を支えた女剣士 義姫
戦国時代を代表する名将であり、「もう少し早く生まれていれば天下人になれた」と語り継がれる仙台藩初代藩主「伊達政宗」(だてまさむね)。その母で、「奥羽(おうう)の鬼姫」との異名も持つのが義姫(よしひめ=1547~1623年)です。
子を殺そうとした鬼母か、家と子の将来を案じ葛藤した母か
足利氏の流れをくむ奥羽(おうう=東北地方)の名流・最上家(もがみけ)の姫として生まれた義姫は、戦国期に入り勢力を増していた伊達家に政略結婚という形で嫁ぎ、伊達政宗を生みます。

その後、伊達家と最上家の対立が深刻化し、長子・伊達政宗が危機的状況に陥った際には、41歳の義姫が甲冑(鎧兜)を身にまとい戦場へ馳せ参じ、兄である最上義光(もがみよしあき)に停戦を要求。それが聞き入れられるまで居座り続けたと伝わります。

その一方で、次男の伊達小次郎を偏愛するあまり、伊達政宗の暗殺を度々謀ったとも言われる義姫。両極端なエピソードは何を物語るのでしょうか。その生涯を紹介しましょう。

伊達氏のライバル・最上氏の姫として誕生
義姫は、1547年(1548年とも)、出羽国(山形県・秋田県)山形城主・最上義守(もがみよしもり)の娘として誕生。2歳上の兄・最上義光とは頻繁に書状を交わすなど、仲が良かったことで知られています。

1564年、義姫が17歳のときに、敵対していた米沢城主・伊達輝宗(だててるむね)と政略結婚。米沢城の東館に住んだことから、お東の方・最上御前とも呼ばれていました。

義姫が伊達家に嫁いで間もなく、実家の最上家で事件が起きます。最上義守が家督を最上義光ではなく、弟の最上義時(よしとき)に譲ろうとしたことが原因で、父・最上義守と兄・最上義光が対立。義姫の夫・伊達輝宗は最上義守側に立ちますが、義姫は兄・最上義光を敬愛しており、親子の対決に苦しんだようです。

結果的には、最上義守と最上義光は和解。そして、結婚から3年後の1567年、義姫20歳のときに長男の伊達政宗(幼名:梵天丸=ぼんてんまる)が生まれます。その後、弟の伊達小次郎(幼名:竺丸=じくまる)も生まれます。

伊達政宗を疎ましく思い、次男を偏愛
義姫は気丈で、頭が良く、男勝りで政治にも積極的にかかわる行動的な女性だったと、多くの逸話が伝えています。

伊達政宗が生まれたとき、兄の最上義光のような人物になってくれるよう、義姫は期待をかけていたでしょう。伊達政宗は義姫の期待どおり、いやそれ以上の活躍をみせて出羽国と陸奥国の覇者になり、さらには仙台藩62万石の礎を築く訳ですが、伊達政宗が5歳のとき、重い天然痘(てんねんとう=疱瘡=ほうそう)に罹(かか)ったことにより、義姫との親子関係は、愛にあふれたものとはならなかったようです。
伊達政宗は、天然痘による膿のため右眼を失明したばかりか、飛び出したその眼は醜(みにく)く、以来、義姫が可愛がらなくなったと伝わります。そして、義姫はちょうどそのころ生まれた次男の竺丸を溺愛するようになり、家督を伊達政宗でなく竺丸に継がせようと画策するまでになったと。

まだ幼少のころから実の母に疎まれるとは、当時、梵天丸と呼ばれた伊達政宗の心情を思うと胸が痛くなりますが、この逸話にはこんな見方もあります。

戦国期に生まれ、戦場の過酷さを知る義姫は、五体満足でもときとして後れを取ることのある合戦の場で、伊達政宗のような独眼では万事に不利であり、その身を案じたのではないかと。

同時に、戦国大名に嫁いだ身として、家を守るために優れた資質の後継ぎを育てることが何より大事。伊達家のことを思えばこその竺丸への偏愛ではなかったかと。

義姫による伊達政宗暗殺は真実か否か
伊達政宗は、母・義姫の愛を得られなかった代わりに、父の伊達輝宗からはたくさんの愛情を注がれて育ちます。

一説には、非凡ではあるものの気弱な面を持っていたとされる伊達輝宗は、早くから伊達政宗の中に自身にはない乱世を生き抜く資質があることを認めていたようです。

しかし、義姫と伊達政宗の確執は、伊達政宗が成長するにつれてより深まり、片や伊達輝宗はどこまでも伊達政宗に伊達家の将来を託そうとします。この相反する思いが高じた結果、義姫は伊達政宗の暗殺を企てるようになったと言われているのです。しかもそれは一度ではなかったと言われています。

最初は1577年のこと。梵天丸から伊達政宗と名を改めた元服直後、伊達政宗は寝室で曲者に首を絞められ殺されそうになります。これがまず、義姫により送り込まれた暗殺者だったと言われています。

次は、伊達政宗の結婚直後です。伊達政宗13歳の時に、三春城主・田村清顕(たむらきよあき)の娘・愛姫(めごひめ)と結婚。このとき、愛姫はまだ数え年11歳で、三春から乳母や侍女達も姫の供としてやってきます。

そんな最中、伊達政宗の毒殺未遂事件が発生。これを伊達政宗は田村家によるものと思い込み、伊達政宗自ら首謀者とされた老女を日本刀で斬り殺し、愛姫の侍女達の多くも死罪に処しています。しかし、これもまた、実は母の義姫による暗殺未遂だったというのです。

この2つの事件の確証は何もなく、真実は分かりません。義姫と伊達政宗が不和であったことから、のちに作られた話かもしれず、また、一説には、義姫が兄の最上義光と仲が良く、伊達政宗の暗殺は兄の指示によるものだったとも伝わります。
戦場に赴き、2度も戦いを止めた義姫
一方で、伊達政宗暗殺を企てた姿とは真逆と言えるエピソードも残ります。義姫は、戦場で自ら戦ったことはありませんが、「自分が参らねばならない」と思うや否や戦場にまでも馳せ参じる気丈さを持った女性で、2度も戦場へ赴いています。

1度目は、1578年、夫の伊達輝宗が上山城城主の上山満兼(かみのやまみつかね)と連合し、義姫の兄・最上義光を攻めたとき。駕籠に乗って夫の陣中に出向き、「なにゆえ兄弟喧嘩をなさるのか」と詰め寄ったと言われています。
そして2度目が、伊達政宗が1584年に伊達家の家督を継いだ4年後の1588年。当時、南奥羽の均衡状態は、豊臣秀吉の関白就任と伊達政宗が家督継承後に引き起こした一連の軍事行動によって大きく揺らいでいました。
そんな中、起こったのが、伊達氏が最上・大崎(おおさき=陸奥大崎5郡を支配)の両氏と対立し、一触即発の状態になった「大崎合戦」です。

当時、伊達政宗は郡山(福島県)で常陸(ひたち)の佐竹氏、会津(あいづ)の芦名氏らと対陣中ですぐに現場に駆け付けることができませんでした。

義姫はこれを知ると、すぐさま輿に乗り戦場に乗り込み、両軍の間に自分の輿を据えて、兄・最上義光に停戦を要求。最上義光は最愛の妹の頼みとあっては断り切れず、その願いを聞き入れると約束しますが、義姫はそれが実際に守られるまでは決して動かないと双方に睨みを利かせます。

そして何と義姫はそのまま80日間も居座ったのち、ついに兄と子とを和睦に至らせたと伝わるのです。

ある意味、並みの戦国武将以上の度胸の持ち主と思わずにはいられません。それとともに、もし義姫が暗殺を企てるほど伊達政宗を憎んでいたのなら、このような行動に出るだろうかという疑問が浮かびます。
謎多き、義姫の心模様
義姫と伊達政宗、そして最上義光の関係性には、多くの謎があります。

実は義姫による伊達政宗暗殺計画は、一説にはもう一度起こっています。伊達政宗が家督を継ぎ、さらに義姫が夫・伊達輝宗の死後、仏門に入り、「保春院」(ほしゅんいん)となってのちのことです。

1590年6月、伊達政宗は天下統一目前の豊臣秀吉に恭順の意を表すために、小田原征伐に参陣しようとします。ただこの参陣、伊達政宗自身は消極的で、豊臣秀吉から再三の呼び出しを受ける中、いろいろな理由を付け拒み続けたため大幅に遅れていました。

義姫は兄の最上義光から、伊達政宗が今さら出立しても豊臣秀吉は機嫌を損ねているに違いなく、伊達政宗を殺さねば伊達家が危ういと入れ知恵されたとされ、出立前日の夜、送別の宴に招いた伊達政宗に毒入りの膳を与えたと言うのです。

伊達政宗はこの宴の半ばで退席し、毒消しの薬を服用したことで大事に至らなかった、あるいは毒見役が血を吐き死んだため、難を逃れたと伝わりますが、この事件により伊達政宗はさらに出立を延期し、弟の伊達小次郎(竺丸)を呼びつけて刀で成敗。これを聞いた義姫はただちに実家の最上家へ戻ったとされています。

ただ、これには別の見方もあり、伊達政宗が自分の出立後に伊達小次郎を擁立しようと動く者があることを恐れ、一芝居打ったのではないかと。もっと言えば、この事件で義姫・伊達政宗親子の間のわだかまりはそもそもなかったのではないかとも言われています。

なぜなら、この事件のあと、伊達政宗と義姫はたびたび手紙を交わしており、伊達家文書の中に残る伊達政宗の母への手紙の内容はどれも、親子の情愛を感じさせるもの。山形に逃げ帰った義姫との間でそのような内容の手紙がやりとりされるとは考えにくいからです。また、28年という時を経てからではあるものの、伊達政宗は義姫を仙台へと迎え入れてもいます。
そして、1623年、義姫は享年76歳でこの世を去ります。義姫の生涯は、その過激な行動ばかり喧伝されがちですが、ただただ伊達家と最上家双方の安泰を願い、そのために奔走した一生であったと言えるのではないでしょうか。

義姫が伊達政宗と仙台で一緒に暮らしたのは10ヵ月ほど。この10ヵ月が2人にとってどのような日々であったのか。義姫にとっては初めて平穏を感じた時間であったのかもしれません。

舞踏会(上)
芥川龍之介

       一

 明治十九年十一月三日の夜であつた。当時十七歳だつた――家けの令嬢明子あきこは、頭の禿げた父親と一しよに、今夜の舞踏会が催さるべき鹿鳴館ろくめいくあんの階段を上つて行つた。明あかるい瓦斯ガスの光に照らされた、幅の広い階段の両側には、殆ほとんど人工に近い大輪の菊の花が、三重の籬まがきを造つてゐた。菊は一番奥のがうす紅べに、中程のが濃い黄色、一番前のがまつ白な花びらを流蘇ふさの如く乱してゐるのであつた。さうしてその菊の籬の尽きるあたり、階段の上の舞踏室からは、もう陽気な管絃楽の音が、抑へ難い幸福の吐息のやうに、休みなく溢れて来るのであつた。
 明子は夙つとに仏蘭西フランス語と舞踏との教育を受けてゐた。が、正式の舞踏会に臨むのは、今夜がまだ生まれて始めてであつた。だから彼女は馬車の中でも、折々話しかける父親に、上うはの空の返事ばかり与へてゐた。それ程彼女の胸の中には、愉快なる不安とでも形容すべき、一種の落着かない心もちが根を張つてゐたのであつた。彼女は馬車が鹿鳴館の前に止るまで、何度いら立たしい眼を挙げて、窓の外に流れて行く東京の町の乏しい燈火ともしびを、見つめた事だか知れなかつた。
 が、鹿鳴館の中へはひると、間もなく彼女はその不安を忘れるやうな事件に遭遇した。と云ふのは階段の丁度中程まで来かかつた時、二人は一足先に上つて行く支那の大官に追ひついた。すると大官は肥満した体を開いて、二人を先へ通らせながら、呆あきれたやうな視線を明子へ投げた。初々うひうひしい薔薇色の舞踏服、品好く頸へかけた水色のリボン、それから濃い髪に匂つてゐるたつた一輪の薔薇の花――実際その夜の明子の姿は、この長い辮髪べんぱつを垂れた支那の大官の眼を驚かすべく、開化の日本の少女の美を遺憾ゐかんなく具へてゐたのであつた。と思ふと又階段を急ぎ足に下りて来た、若い燕尾服の日本人も、途中で二人にすれ違ひながら、反射的にちよいと振り返つて、やはり呆あきれたやうな一瞥いちべつを明子の後姿に浴せかけた。それから何故か思ひついたやうに、白い襟飾ネクタイへ手をやつて見て、又菊の中を忙しく玄関の方へ下りて行つた。
二人が階段を上り切ると、二階の舞踏室の入口には、半白の頬鬚ほほひげを蓄へた主人役の伯爵が、胸間に幾つかの勲章を帯びて、路易ルイ十五世式の装ひを凝こらした年上の伯爵夫人と一しよに、大様おほやうに客を迎へてゐた。明子はこの伯爵でさへ、彼女の姿を見た時には、その老獪らうくあいらしい顔の何処かに、一瞬間無邪気な驚嘆の色が去来したのを見のがさなかつた。人の好い明子の父親は、嬉しさうな微笑を浮べながら、伯爵とその夫人とへ手短てみじかに娘を紹介した。彼女は羞恥しうちと得意とを交かはる交がはる味つた。が、その暇にも権高けんだかな伯爵夫人の顔だちに、一点下品な気があるのを感づくだけの余裕があつた。
 舞踏室の中にも至る所に、菊の花が美しく咲き乱れてゐた。さうして又至る所に、相手を待つてゐる婦人たちのレエスや花や象牙の扇が、爽かな香水の匂の中に、音のない波の如く動いてゐた。明子はすぐに父親と分れて、その綺羅きらびやかな婦人たちの或一団と一しよになつた。それは皆同じやうな水色や薔薇色の舞踏服を着た、同年輩らしい少女であつた。彼等は彼女を迎へると、小鳥のやうにさざめき立つて、口口に今夜の彼女の姿が美しい事を褒め立てたりした。
 が、彼女がその仲間へはひるや否や、見知らない仏蘭西フランスの海軍将校が、何処からか静に歩み寄つた。さうして両腕を垂れた儘、叮嚀に日本風の会釈ゑしやくをした。明子はかすかながら血の色が、頬に上つて来るのを意識した。しかしその会釈が何を意味するかは、問ふまでもなく明かだつた。だから彼女は手にしてゐた扇を預つて貰ふべく、隣に立つてゐる水色の舞踏服の令嬢をふり返つた。と同時に意外にも、その仏蘭西の海軍将校は、ちらりと頬に微笑の影を浮べながら、異様なアクサンを帯びた日本語で、はつきりと彼女にかう云つた。
「一しよに踊つては下さいませんか。」

 間もなく明子は、その仏蘭西の海軍将校と、「美しく青きダニウブ」のヴアルスを踊つてゐた。相手の将校は、頬の日に焼けた、眼鼻立ちの鮮あざやかな、濃い口髭のある男であつた。彼女はその相手の軍服の左の肩に、長い手袋を嵌はめた手を預くべく、余りに背が低かつた。が、場馴れてゐる海軍将校は、巧に彼女をあしらつて、軽々と群集の中を舞ひ歩いた。さうして時々彼女の耳に、愛想の好い仏蘭西語の御世辞さへも囁ささやいた。
彼女はその優しい言葉に、恥しさうな微笑を酬いながら、時々彼等が踊つてゐる舞踏室の周囲へ眼を投げた。皇室の御紋章を染め抜いた紫縮緬ちりめんの幔幕まんまくや、爪を張つた蒼竜さうりゆうが身をうねらせてゐる支那の国旗の下には、花瓶々々の菊の花が、或は軽快な銀色を、或は陰欝いんうつな金色を、人波の間にちらつかせてゐた。しかもその人波は、三鞭酒シヤンパアニユのやうに湧き立つて来る、花々しい独逸ドイツ管絃楽の旋律の風に煽られて、暫くも目まぐるしい動揺を止めなかつた。明子はやはり踊つてゐる友達の一人と眼を合はすと、互に愉快さうな頷うなづきを忙しい中に送り合つた。が、その瞬間には、もう違つた踊り手が、まるで大きな蛾がが狂ふやうに、何処からか其処へ現れてゐた。
 しかし明子はその間にも、相手の仏蘭西の海軍将校の眼が、彼女の一挙一動に注意してゐるのを知つてゐた。それは全くこの日本に慣れない外国人が、如何に彼女の快活な舞踏ぶりに、興味があつたかを語るものであつた。こんな美しい令嬢も、やはり紙と竹との家の中に、人形の如く住んでゐるのであらうか。さうして細い金属の箸で、青い花の描いてある手のひら程の茶碗から、米粒を挾んで食べてゐるのであらうか。――彼の眼の中にはかう云ふ疑問が、何度も人懐しい微笑と共に往来するやうであつた。明子にはそれが可笑をかしくもあれば、同時に又誇らしくもあつた。だから彼女の華奢きやしやな薔薇色の踊り靴は、物珍しさうな相手の視線が折々足もとへ落ちる度に、一層身軽く滑なめらかな床の上を辷すべつて行くのであつた。
 が、やがて相手の将校は、この児猫のやうな令嬢の疲れたらしいのに気がついたと見えて、劬いたはるやうに顔を覗きこみながら、
「もつと続けて踊りませうか。」
「ノン・メルシイ。」
 明子は息をはずませながら、今度ははつきりとかう答へた。
 するとその仏蘭西の海軍将校は、まだヴアルスの歩みを続けながら、前後左右に動いてゐるレエスや花の波を縫つて、壁側かべぎはの花瓶の菊の方へ、悠々と彼女を連れて行つた。さうして最後の一廻転の後、其処にあつた椅子の上へ、鮮あざやかに彼女を掛けさせると、自分は一旦軍服の胸を張つて、それから又前のやうに恭うやうやしく日本風の会釈をした。

 その後又ポルカやマズユルカを踊つてから、明子はこの仏蘭西の海軍将校と腕を組んで、白と黄とうす紅と三重の菊の籬まがきの間を、階下の広い部屋へ下りて行つた。
此処には燕尾服や白い肩がしつきりなく去来する中に、銀や硝子ガラスの食器類に蔽おほはれた幾つかの食卓が、或は肉と松露しようろとの山を盛り上げたり、或はサンドウイツチとアイスクリイムとの塔を聳そばだてたり、或は又柘榴ざくろと無花果いちじゆくとの三角塔を築いたりしてゐた。殊に菊の花が埋め残した、部屋の一方の壁上には、巧な人工の葡萄蔓ぶだうつるが青々とからみついてゐる、美しい金色の格子があつた。さうしてその葡萄の葉の間には、蜂の巣のやうな葡萄の房が、累々るゐるゐと紫に下つてゐた。明子はその金色の格子の前に、頭の禿げた彼女の父親が、同年輩の紳士と並んで、葉巻を啣くはへてゐるのに遇つた。父親は明子の姿を見ると、満足さうにちよいと頷いたが、それぎり連れの方を向いて、又葉巻を燻くゆらせ始めた。
 仏蘭西の海軍将校は、明子と食卓の一つへ行つて、一しよにアイスクリイムの匙さじを取つた。彼女はその間も相手の眼が、折々彼女の手や髪や水色のリボンを掛けた頸くびへ注がれてゐるのに気がついた。それは勿論彼女にとつて、不快な事でも何でもなかつた。が、或刹那には女らしい疑ひも閃ひらめかずにはゐられなかつた。そこで黒い天鵞絨びろうどの胸に赤い椿の花をつけた、独逸人らしい若い女が二人の傍を通つた時、彼女はこの疑ひを仄ほのめかせる為に、かう云ふ感歎の言葉を発明した。
「西洋の女の方はほんたうに御美しうございますこと。」
 海軍将校はこの言葉を聞くと、思ひの外真面目に首を振つた。
「日本の女の方も美しいです。殊にあなたなぞは――」
「そんな事はこざいませんわ。」
「いえ、御世辞ではありません。その儘すぐに巴里パリの舞踏会へも出られます。さうしたら皆が驚くでせう。ワツトオの画の中の御姫様のやうですから。」
 明子はワツトオを知らなかつた。だから海軍将校の言葉が呼び起した、美しい過去の幻も――仄暗い森の噴水と凋すがれて行く薔薇との幻も、一瞬の後には名残りなく消え失せてしまはなければならなかつた。が、人一倍感じの鋭い彼女は、アイスクリイムの匙を動かしながら、僅にもう一つ残つてゐる話題に縋すがる事を忘れなかつた。
「私も巴里の舞踏会へ参つて見たうございますわ。」
海軍将校はかう云ひながら、二人の食卓を繞めぐつてゐる人波と菊の花とを見廻したが、忽ち皮肉な微笑の波が瞳の底に動いたと思ふと、アイスクリイムの匙を止めて、
「巴里ばかりではありません。舞踏会は何処でも同じ事です。」と半ば独り語のやうにつけ加へた。

 一時間の後、明子と仏蘭西フランスの海軍将校とは、やはり腕を組んだ儘、大勢の日本人や外国人と一しよに、舞踏室の外にある星月夜の露台に佇んでゐた。
 欄干一つ隔へだてた露台の向うには、広い庭園を埋めた針葉樹が、ひつそりと枝を交し合つて、その梢こずゑに点々と鬼灯提燈ほほづきぢやうちんの火を透すかしてゐた。しかも冷かな空気の底には、下の庭園から上つて来る苔の匂や落葉の匂が、かすかに寂しい秋の呼吸を漂はせてゐるやうであつた。が、すぐ後の舞踏室では、やはりレエスや花の波が、十六菊を染め抜いた紫縮緬ちりめんの幕の下に、休みない動揺を続けてゐた。さうして又調子の高い管絃楽のつむじ風が、相不変あひかはらずその人間の海の上へ、用捨ようしやもなく鞭を加へてゐた。


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