石川県の地震想定 27年前のまま“災害度低い”と防災計画に
2024年2月1日 16時07分
能登半島沖の地震をめぐり、石川県が想定される地震として地域防災計画に示していたのは27年前のもので、今回の地震よりも規模が小さく、「ごく局地的な災害で災害度は低い」と評価していました。
専門家は想定の甘さを指摘したうえで、見直しが必要だとしています。
石川県の地域防災計画には地震や津波などの対策が書かれていて、このうち津波については2014年の国の報告書を踏まえて、新たな浸水想定が盛り込まれました。
一方、能登半島沖で想定される地震については、27年前に設定された能登半島北方沖を震源とするマグニチュード7.0の地震で、今回よりも規模が小さく、「ごく局地的な災害で災害度は低い」と評価していました。
また、被害想定も、
▽死者が7人
▽建物の全壊が120棟
▽避難者が2781人などと
今回と比べて大幅に下回っていました。
県の防災会議の震災対策部会で委員を務める地元の研究者からは2011年4月に、地震想定の見直しを求める意見書が県に出されていましたが、県によりますと、見直しに着手したのは去年8月になってからだったということです。
これについて石川県の馳知事は記者会見で、被害想定の見直しには国による調査が必要なため、国に対して早期に調査を行い結果を公表するよう求めるとともに、県としても議論を開始していたと説明しています。
そのうえで、今回の災害対応への影響について、「被害状況は自衛隊や県などで正確に共有され、県として最大限の対応をした」としています。
一連の県の対応について、石川県の災害危機管理アドバイザーを務める神戸大学の室崎益輝名誉教授は、「被害想定が甘かったため、実態とかけ離れて、必要な物資やマンパワーが手に入らないということにつながった。被害想定を作るプロセスに関わっていた私にも責任があり、想定のあり方を考え直さなければならない」と話しています。
室崎益輝名誉教授は1月27日に能登半島地震の被災地の現状を調査し、被災者を支える人手などが不足しているとして改善を急ぐとともに、復興のビジョンを行政が速やかに示す必要があると指摘しました。
「能登の現実」改善するためには
このうち、多くの建物が倒壊した珠洲市の現場では、室崎名誉教授自身が29年前に被災した阪神・淡路大震災と比較し、建物によっては当時よりもダメージが大きいという見方を示しました。
一方、倒壊を免れた古い建物に着目し、地域に住み続けられる可能性を探るためにも、揺れに耐えた原因を分析することが必要だという考えを示しました。
また、市内の避難所を訪れ、被災者から、
▽避難所の運営にも携わっているため限界にきているとか、
▽2次避難先がわからず、判断に迷っているといった声を聞き取っていました。
そのうえで、今回の災害の特徴について、一般のボランティアが十分に被災地へ来ることができていないとして、被災者と被災者を支える人たちを応援する仕組みを急いで構築する必要があると指摘しました。
室崎名誉教授は「日本はさまざまな災害を経験してきたが、その分、豊富な知恵があるはずだ。日本のすべての英知を集めるくらいの気概がなければ、能登の現実は改善されない」と話していました。
国交省 道路寸断時の計画も策定進まず 総務省からの勧告も
能登半島地震では被災地につながる道路が損傷したり、崩れた土砂で塞がれたりして支援の大きな障害になりました。
道路の寸断は東日本大震災でも大きな課題となったため、国が中心となって応急復旧などの手順を定めた「道路啓開計画」を立てることが求められ、各地で計画の策定が進められました。
一方、国土交通省の北陸地方整備局は2023年4月に総務省から勧告を受けて、県や自治体と話し合いを始めたということですが、策定できていませんでした。
策定が進んでいなかった理由について北陸地方整備局は、南海トラフ巨大地震や首都直下地震のような大規模な地震災害が想定されていなかったためとしています。
そのうえで、「計画はできていなかったが、今回の地震では道路法に基づいて県や自治体と連携した復旧作業ができていると考えている」としています。
2024年2月1日 16時07分
能登半島沖の地震をめぐり、石川県が想定される地震として地域防災計画に示していたのは27年前のもので、今回の地震よりも規模が小さく、「ごく局地的な災害で災害度は低い」と評価していました。
専門家は想定の甘さを指摘したうえで、見直しが必要だとしています。
石川県の地域防災計画には地震や津波などの対策が書かれていて、このうち津波については2014年の国の報告書を踏まえて、新たな浸水想定が盛り込まれました。
一方、能登半島沖で想定される地震については、27年前に設定された能登半島北方沖を震源とするマグニチュード7.0の地震で、今回よりも規模が小さく、「ごく局地的な災害で災害度は低い」と評価していました。
また、被害想定も、
▽死者が7人
▽建物の全壊が120棟
▽避難者が2781人などと
今回と比べて大幅に下回っていました。
県の防災会議の震災対策部会で委員を務める地元の研究者からは2011年4月に、地震想定の見直しを求める意見書が県に出されていましたが、県によりますと、見直しに着手したのは去年8月になってからだったということです。
これについて石川県の馳知事は記者会見で、被害想定の見直しには国による調査が必要なため、国に対して早期に調査を行い結果を公表するよう求めるとともに、県としても議論を開始していたと説明しています。
そのうえで、今回の災害対応への影響について、「被害状況は自衛隊や県などで正確に共有され、県として最大限の対応をした」としています。
一連の県の対応について、石川県の災害危機管理アドバイザーを務める神戸大学の室崎益輝名誉教授は、「被害想定が甘かったため、実態とかけ離れて、必要な物資やマンパワーが手に入らないということにつながった。被害想定を作るプロセスに関わっていた私にも責任があり、想定のあり方を考え直さなければならない」と話しています。
室崎益輝名誉教授は1月27日に能登半島地震の被災地の現状を調査し、被災者を支える人手などが不足しているとして改善を急ぐとともに、復興のビジョンを行政が速やかに示す必要があると指摘しました。
「能登の現実」改善するためには
このうち、多くの建物が倒壊した珠洲市の現場では、室崎名誉教授自身が29年前に被災した阪神・淡路大震災と比較し、建物によっては当時よりもダメージが大きいという見方を示しました。
一方、倒壊を免れた古い建物に着目し、地域に住み続けられる可能性を探るためにも、揺れに耐えた原因を分析することが必要だという考えを示しました。
また、市内の避難所を訪れ、被災者から、
▽避難所の運営にも携わっているため限界にきているとか、
▽2次避難先がわからず、判断に迷っているといった声を聞き取っていました。
そのうえで、今回の災害の特徴について、一般のボランティアが十分に被災地へ来ることができていないとして、被災者と被災者を支える人たちを応援する仕組みを急いで構築する必要があると指摘しました。
室崎名誉教授は「日本はさまざまな災害を経験してきたが、その分、豊富な知恵があるはずだ。日本のすべての英知を集めるくらいの気概がなければ、能登の現実は改善されない」と話していました。
国交省 道路寸断時の計画も策定進まず 総務省からの勧告も
能登半島地震では被災地につながる道路が損傷したり、崩れた土砂で塞がれたりして支援の大きな障害になりました。
道路の寸断は東日本大震災でも大きな課題となったため、国が中心となって応急復旧などの手順を定めた「道路啓開計画」を立てることが求められ、各地で計画の策定が進められました。
一方、国土交通省の北陸地方整備局は2023年4月に総務省から勧告を受けて、県や自治体と話し合いを始めたということですが、策定できていませんでした。
策定が進んでいなかった理由について北陸地方整備局は、南海トラフ巨大地震や首都直下地震のような大規模な地震災害が想定されていなかったためとしています。
そのうえで、「計画はできていなかったが、今回の地震では道路法に基づいて県や自治体と連携した復旧作業ができていると考えている」としています。
孤立、別れ、とどまる決意 能登半島地震1か月
石川県知事 2次避難の対応”十分でなかったおわび”
2024年2月1日 13時10分
能登半島地震の発生から1か月。
被災した人たちの多くが住まいの選択に思い悩んでいます。
“去るべきか” それとも “残るべきか”
家族への思い、土地への思い、将来への思い。
それは、簡単な決断ではありません。
能登半島地震で甚大な被害を受けた珠洲市の海沿いの地区で、住民の多くに市外に避難する動きが進む中、家族と離ればなれになりながらも、役割をまっとうしようと地区に残る区長の男性がいます。
高校卒業が迫り離ればなれで避難する娘は「率直に言うと、さみしい」と打ち明け、生まれ育った場所にとどまる男性は、父親、区長それぞれの立場からこのまま残り続けるべきかどうかいま、思い悩んでいます。
珠洲市蛸島町の新町地区で区長を務める木挽芳紀さん(54)は、約90年前に海沿いに建てられた住宅で生まれ育ち、80代の両親と妻(52)、それに高校3年生の娘(18)のあわせて5人で暮らしていました。
今回の地震で住宅は1階部分が押しつぶされるように倒壊し、当時、娘と父は外出中で無事でしたが中にいた妻と82歳の母親が閉じ込められました。
妻は、自力で脱出できたものの、母親は身動きが取れず、最悪の結果が頭をよぎったといいます。
木挽さんは当時の状況について「正直、母親は死んでしまったと思いました。窓から確認のために声をかけたら声が聞こえたので『どこや壁たたけ』と言ったらドンドンと反応があったので救出しました」と証言しました。
近所でも倒壊した建物に複数の人が閉じ込められて、ひたすら5人ほどを助け出し終えて気づくと、はじめの揺れから7時間余りがたっていたということです。
被害の全容も分からぬまま数日たった1月初旬、両親と娘は安全を確保するために、約120キロ離れた白山市の親類のもとに避難し、木挽さんは区長として地域を見守る責任があるとして、妻とともに倒壊を免れた自宅裏の小屋で在宅避難を続けています。
木挽さんは、離ればなれになった娘の妃菜和さんがまもなく高校を卒業し、春からの進学も決まった大切な時期に慣れない土地での暮らしを強いられていることを心配しています。
木挽さんは「一緒にいたのに急にいなくなるのは、さびしいですよね、やっぱり。新型コロナウイルスの影響で4年間、何もできない状態で、やっとこれから活動できるというところにとどめ刺されたみたいで本当にかわいそうです」と娘への思いを語りました。
木挽さんによると、娘の妃菜和さんはLINEなどで連絡を取ると、心配をかけまいと無理をして元気にふるまっているように感じることがあるということです。
娘の妃菜和さんはいまの心境について「率直に言うと、お父さんお母さんと離れるのが一番さみしいです。ひとりになるときとかにとてもさみしいなと思います。珠洲には卒業までに1回だけでも戻りたいなと思っています」と話してくれました。
木挽さんは、東日本大震災が起きた次の年の2012年に地域の役に立つならばと防災士の資格を取っていたものの、この地震の被害を軽減できなかったのではないかとみずからを責めていて、仕事と区長の両立だけでなく、現在、避難所の運営スタッフにも参加しています。
しかし、家族と離れてまで下した苦渋の決断が本当にこのままでよいのか、分からなくなる事態に直面しています。
この地区を愛し、古くから伝わる祭りで大漁と豊作をともに願い合ってきた住民たちがひとり、またひとりと地区を去っていくのです。
木挽さんは「ほかの人のことも考えないといけないし、残らないとだめかなという思いで残りましたが、やっぱりさみしいです。『もう町には戻れない』と言う人も多くいるので、地震前の半分の人が残ればいいほうだと思います。せっかくこの町で育ったので復興できればしたいが、家族のことを考えると町を出るか、残るのか、気持ちは半々です」と話し、思い悩んでいます。
地震のあと一時、孤立状態となった石川県輪島市の山あいの地区で区長を務めていた男性は、ふるさとを離れ、市外に避難する決断をしました。
地震による大規模な土砂崩れなどで一時、孤立状態となった、輪島市の山あいにある町野町の若桑地区。
地区の区長を務めていた岡田幸吉さん(77)は、妻と47歳の長男とともに市の外に避難することを決め、1月29日、近くの中学校に必要な書類を出しました。
行き先はまだ決まっておらず、家族とともに自宅や避難所にある荷物を片付けて避難に備えています。
2018年から6年にわたり区長を務めてきた岡田さん。
1月21日には、役職を後任に引き継ぎました。
避難の決断をしたのは、今後も地震が続くおそれがある中、安心な場所で過ごしたいと考えたほか、断水の長期化による不自由な生活が続き、健康面の不安もあるためです。
落ち着いたら自宅近くの仮設住宅に住み、そのあとも若桑地区に住み続けたいと考えていますが、資金面などから先が見えないと言います。
岡田さんは「若桑地区のことがまだ心配でなんとも言えないさみしさがあり、まだいたいという気持ちになって、残ろうかなという葛藤というか気持ちの整理がつかないまま行ってしまう気がします。住み慣れた土地だし、傾いた家も見に行けるので戻ってきたいです」と話していました。
1日午前の記者会見で馳知事は、「亡くなられた方にお悔やみを申し上げる。思わぬ自然災害で突然、人生の幕を閉じることになり、家族は憤まんやるかたないと思う。悲しみを理解しながら前を向いて歩いていかなければならない」と述べました。
また、馳知事は県が進めた旅館やホテルを活用した2次避難について、「送り出し側と受け手側のマッチングや情報共有が混乱し十分でなかったことはおわび申し上げる」と陳謝しました。
そして、北陸新幹線が、3月県内で全線開業し、観光需要が高まることなどを踏まえ、「長期化を避けなければならない」と指摘し次の住まいの選択肢の提示を進める考えを示しました。
一方、馳知事は、新たに部局横断の「能登半島地震復旧・復興本部」を設置する考えを明らかにし、「能登は、石川県民の心のふるさとであり、日本の原風景そのものだ。必ず、能登を守り、ふるさとの輝きを取り戻す決意だ」と強調しました。
そして、今後の復旧・復興に向けて必ず能登に戻すことと、単なる復旧ではなく、「創造的復興」を目指すとする2つの理念を示しました。
石川県知事 2次避難の対応”十分でなかったおわび”
2024年2月1日 13時10分
能登半島地震の発生から1か月。
被災した人たちの多くが住まいの選択に思い悩んでいます。
“去るべきか” それとも “残るべきか”
家族への思い、土地への思い、将来への思い。
それは、簡単な決断ではありません。
能登半島地震で甚大な被害を受けた珠洲市の海沿いの地区で、住民の多くに市外に避難する動きが進む中、家族と離ればなれになりながらも、役割をまっとうしようと地区に残る区長の男性がいます。
高校卒業が迫り離ればなれで避難する娘は「率直に言うと、さみしい」と打ち明け、生まれ育った場所にとどまる男性は、父親、区長それぞれの立場からこのまま残り続けるべきかどうかいま、思い悩んでいます。
珠洲市蛸島町の新町地区で区長を務める木挽芳紀さん(54)は、約90年前に海沿いに建てられた住宅で生まれ育ち、80代の両親と妻(52)、それに高校3年生の娘(18)のあわせて5人で暮らしていました。
今回の地震で住宅は1階部分が押しつぶされるように倒壊し、当時、娘と父は外出中で無事でしたが中にいた妻と82歳の母親が閉じ込められました。
妻は、自力で脱出できたものの、母親は身動きが取れず、最悪の結果が頭をよぎったといいます。
木挽さんは当時の状況について「正直、母親は死んでしまったと思いました。窓から確認のために声をかけたら声が聞こえたので『どこや壁たたけ』と言ったらドンドンと反応があったので救出しました」と証言しました。
近所でも倒壊した建物に複数の人が閉じ込められて、ひたすら5人ほどを助け出し終えて気づくと、はじめの揺れから7時間余りがたっていたということです。
被害の全容も分からぬまま数日たった1月初旬、両親と娘は安全を確保するために、約120キロ離れた白山市の親類のもとに避難し、木挽さんは区長として地域を見守る責任があるとして、妻とともに倒壊を免れた自宅裏の小屋で在宅避難を続けています。
木挽さんは、離ればなれになった娘の妃菜和さんがまもなく高校を卒業し、春からの進学も決まった大切な時期に慣れない土地での暮らしを強いられていることを心配しています。
木挽さんは「一緒にいたのに急にいなくなるのは、さびしいですよね、やっぱり。新型コロナウイルスの影響で4年間、何もできない状態で、やっとこれから活動できるというところにとどめ刺されたみたいで本当にかわいそうです」と娘への思いを語りました。
木挽さんによると、娘の妃菜和さんはLINEなどで連絡を取ると、心配をかけまいと無理をして元気にふるまっているように感じることがあるということです。
娘の妃菜和さんはいまの心境について「率直に言うと、お父さんお母さんと離れるのが一番さみしいです。ひとりになるときとかにとてもさみしいなと思います。珠洲には卒業までに1回だけでも戻りたいなと思っています」と話してくれました。
木挽さんは、東日本大震災が起きた次の年の2012年に地域の役に立つならばと防災士の資格を取っていたものの、この地震の被害を軽減できなかったのではないかとみずからを責めていて、仕事と区長の両立だけでなく、現在、避難所の運営スタッフにも参加しています。
しかし、家族と離れてまで下した苦渋の決断が本当にこのままでよいのか、分からなくなる事態に直面しています。
この地区を愛し、古くから伝わる祭りで大漁と豊作をともに願い合ってきた住民たちがひとり、またひとりと地区を去っていくのです。
木挽さんは「ほかの人のことも考えないといけないし、残らないとだめかなという思いで残りましたが、やっぱりさみしいです。『もう町には戻れない』と言う人も多くいるので、地震前の半分の人が残ればいいほうだと思います。せっかくこの町で育ったので復興できればしたいが、家族のことを考えると町を出るか、残るのか、気持ちは半々です」と話し、思い悩んでいます。
地震のあと一時、孤立状態となった石川県輪島市の山あいの地区で区長を務めていた男性は、ふるさとを離れ、市外に避難する決断をしました。
地震による大規模な土砂崩れなどで一時、孤立状態となった、輪島市の山あいにある町野町の若桑地区。
地区の区長を務めていた岡田幸吉さん(77)は、妻と47歳の長男とともに市の外に避難することを決め、1月29日、近くの中学校に必要な書類を出しました。
行き先はまだ決まっておらず、家族とともに自宅や避難所にある荷物を片付けて避難に備えています。
2018年から6年にわたり区長を務めてきた岡田さん。
1月21日には、役職を後任に引き継ぎました。
避難の決断をしたのは、今後も地震が続くおそれがある中、安心な場所で過ごしたいと考えたほか、断水の長期化による不自由な生活が続き、健康面の不安もあるためです。
落ち着いたら自宅近くの仮設住宅に住み、そのあとも若桑地区に住み続けたいと考えていますが、資金面などから先が見えないと言います。
岡田さんは「若桑地区のことがまだ心配でなんとも言えないさみしさがあり、まだいたいという気持ちになって、残ろうかなという葛藤というか気持ちの整理がつかないまま行ってしまう気がします。住み慣れた土地だし、傾いた家も見に行けるので戻ってきたいです」と話していました。
1日午前の記者会見で馳知事は、「亡くなられた方にお悔やみを申し上げる。思わぬ自然災害で突然、人生の幕を閉じることになり、家族は憤まんやるかたないと思う。悲しみを理解しながら前を向いて歩いていかなければならない」と述べました。
また、馳知事は県が進めた旅館やホテルを活用した2次避難について、「送り出し側と受け手側のマッチングや情報共有が混乱し十分でなかったことはおわび申し上げる」と陳謝しました。
そして、北陸新幹線が、3月県内で全線開業し、観光需要が高まることなどを踏まえ、「長期化を避けなければならない」と指摘し次の住まいの選択肢の提示を進める考えを示しました。
一方、馳知事は、新たに部局横断の「能登半島地震復旧・復興本部」を設置する考えを明らかにし、「能登は、石川県民の心のふるさとであり、日本の原風景そのものだ。必ず、能登を守り、ふるさとの輝きを取り戻す決意だ」と強調しました。
そして、今後の復旧・復興に向けて必ず能登に戻すことと、単なる復旧ではなく、「創造的復興」を目指すとする2つの理念を示しました。
輪島 朝市通り火災は1か所から拡大した 重なった想定外と誤算
2024年2月1日 8時58分
石川県輪島市の観光名所「朝市通り」では、能登半島地震で発生した火災で200棟以上が焼け、およそ5万平方メートルが焼失した。
1か所から出た火の手は瞬く間に広がり、多くの住民が犠牲になった。なぜ火災は拡大し、住民たちの命を救うことはできなかったのか。
火災について取材を進めると、消火活動を阻むいくつもの想定外と誤算が重なっていたことがわかった。
帰省中だった清水宏紀さん(46)の実家は朝市通りのすぐそばにあった。
ゆったりとした元日を、父の博章さん(73)と、母のきくゑさん(75)の3人で過ごしていた。
ケーキを食べながら、2日前に誕生日を迎えたきくゑさんを祝っていた。
午後4時すぎ、輪島市で震度4と震度7の地震が相次いで発生。
1回目の揺れのあと、清水さんは「津波がくるかもしれない」と思い、駐車場に止めてある車のもとへ向かった。
そのとき、2回目の大きな揺れが発生し、実家の1階部分が完全につぶれて倒壊した。
この朝市通りの火災では、200棟以上の住宅や店舗が焼け、およそ5万平方メートルが焼失した。
なぜここまで被害が拡大したのか。
地震発生から1時間余りたった午後5時23分。
救助活動に向かった消防隊が火が出ているのを発見し、ちょうど同じころ、輪島市の消防団で団長を務める川端卓さんも火災に気付いた。
消防団長 川端卓さん
「外を見回っていたとき、なんとなく空のほうに火の気を感じた。それで慌てて朝市通りに近づいたら建物2棟から火が上がっていた」
消防が火災を発見したとき、燃えていたのは、朝市通りの南側にある、隣接する2棟の建物の1か所だった。
すぐに消火活動を始めようとしたが、うまく進められない。
火はここから次々と延焼していった。
最初に到着した消防署員は、消防車を火元の南側に止め、ホースを伸ばして放水しようとした。
水道管が壊れて断水が起きて、消火栓は使えなかったため、近くを流れる河原田川の水を使うことにした。(地図1の場所)
ところが、地震による地盤の隆起が影響したのか、川にはほとんど水が流れておらず、消火に十分な水をくみ上げることはできなかった。
延焼をくい止めるには、火元を複数の所から囲うようにして放水するのが有効だとされている。
このため、先に駆けつけた消防署員を支援すべく、団長の川端さんは、火元の東側からの放水を試みた。(地図2の場所)
ここでも消火栓は断水していたため、地下に水を貯めた防火水槽を使おうとした。
しかし、道路を塞ぐがれきが行く手を阻み近づくことができない。
断水でも使えるはずの防火水槽が使えないのは誤算だった。
川端さんは、場所を火元の西側に移動し、川の水を使おうとしたが、やはり川の水はほとんど流れておらず、消火活動をすることはできなかった。(地図3の場所)
結局、初期に放水できたのは、最初に駆けつけた消防車の1台だけで、それもわずかな川の水しか使えず十分ではなかった。
初期消火の機会を逃すと、火の勢いは増していく。
輪島市では地震発生直後に1メートル20センチ以上の津波が観測されている。
地震発生後から大津波警報や津波警報が出されていたため、海に行って海水を供給することはできなかった。
朝市通りには、古くからの木造の建物が多く、倒壊した建物や家財はより燃えやすくなっていた。
火は道路を覆うがれきを伝いながら、火の粉も風に舞って燃え広がっていった。
川端さんは「このままでは街が大変なことになる」と感じた。
その後、続々と入った消防は、ホースを何十本もつないで、離れた場所にある防火水槽や小学校のプールの水を使って放水した。
しかし、火はすでに街全体を飲み込むように広がっていて、水の力は及ばなかった。
消防団長 川端卓さん
「消しようがなかったんです。もうこれはダメだなと思いました。火の粉が頭の上を越えて向かい側の建物の屋根のほうに飛んでいくのがずっと見えていました。力不足でした」
津波警報が注意報に切り替わった翌2日の未明。
消防は海水をくみ上げて消火を始めた。
海から大量に供給された水で、ようやく火の勢いを食い止めることができた。
そして午前7時半、朝市通りの火災は鎮圧したが、辺り一帯の建物は焼け落ち、かつての賑やかな町並みはなくなっていた。
専門家「防火水槽 使えなかったことを教訓に」
今回の火災を専門家はどう受け止めているのか。
消防行政に詳しい東京理科大学の小林恭一教授はこう話す。「阪神・淡路大震災では、消火栓が断水で使用できず火災が広がった教訓から、断水が起きても利用できる防火水槽の整備が進められた。しかし今回、その防火水槽が使用できなかったことを教訓にしなければならない。防火水槽の取水口を離れた場所にも複数設けて、1か所に障害物があっても他の所を使える対策をとるべきだ。
木造家屋密集地が全国各地にあって、地震で火災が起きると、消防隊が活動できない場合があるので、木造家屋の不燃率を上げていくことも継続的にやっていかなければならない」
さらに、大津波警報や津波警報が出されていた中、浸水想定区域で消火活動を強いられたことについて、小林教授は「今回は津波が火災現場に到達しなかったが、津波が来ていれば多くの殉職者が出たおそれもある」として、国が消火活動の安全に対する明確な基準や制度を示すべきだと指摘している。
さまざまな想定外が重なり、被害が広がった輪島市の朝市通りでの火災。
想定外を減らし、被害を拡大させないための取り組みを進めなければならない。
2024年2月1日 8時58分
石川県輪島市の観光名所「朝市通り」では、能登半島地震で発生した火災で200棟以上が焼け、およそ5万平方メートルが焼失した。
1か所から出た火の手は瞬く間に広がり、多くの住民が犠牲になった。なぜ火災は拡大し、住民たちの命を救うことはできなかったのか。
火災について取材を進めると、消火活動を阻むいくつもの想定外と誤算が重なっていたことがわかった。
帰省中だった清水宏紀さん(46)の実家は朝市通りのすぐそばにあった。
ゆったりとした元日を、父の博章さん(73)と、母のきくゑさん(75)の3人で過ごしていた。
ケーキを食べながら、2日前に誕生日を迎えたきくゑさんを祝っていた。
午後4時すぎ、輪島市で震度4と震度7の地震が相次いで発生。
1回目の揺れのあと、清水さんは「津波がくるかもしれない」と思い、駐車場に止めてある車のもとへ向かった。
そのとき、2回目の大きな揺れが発生し、実家の1階部分が完全につぶれて倒壊した。
この朝市通りの火災では、200棟以上の住宅や店舗が焼け、およそ5万平方メートルが焼失した。
なぜここまで被害が拡大したのか。
地震発生から1時間余りたった午後5時23分。
救助活動に向かった消防隊が火が出ているのを発見し、ちょうど同じころ、輪島市の消防団で団長を務める川端卓さんも火災に気付いた。
消防団長 川端卓さん
「外を見回っていたとき、なんとなく空のほうに火の気を感じた。それで慌てて朝市通りに近づいたら建物2棟から火が上がっていた」
消防が火災を発見したとき、燃えていたのは、朝市通りの南側にある、隣接する2棟の建物の1か所だった。
すぐに消火活動を始めようとしたが、うまく進められない。
火はここから次々と延焼していった。
最初に到着した消防署員は、消防車を火元の南側に止め、ホースを伸ばして放水しようとした。
水道管が壊れて断水が起きて、消火栓は使えなかったため、近くを流れる河原田川の水を使うことにした。(地図1の場所)
ところが、地震による地盤の隆起が影響したのか、川にはほとんど水が流れておらず、消火に十分な水をくみ上げることはできなかった。
延焼をくい止めるには、火元を複数の所から囲うようにして放水するのが有効だとされている。
このため、先に駆けつけた消防署員を支援すべく、団長の川端さんは、火元の東側からの放水を試みた。(地図2の場所)
ここでも消火栓は断水していたため、地下に水を貯めた防火水槽を使おうとした。
しかし、道路を塞ぐがれきが行く手を阻み近づくことができない。
断水でも使えるはずの防火水槽が使えないのは誤算だった。
川端さんは、場所を火元の西側に移動し、川の水を使おうとしたが、やはり川の水はほとんど流れておらず、消火活動をすることはできなかった。(地図3の場所)
結局、初期に放水できたのは、最初に駆けつけた消防車の1台だけで、それもわずかな川の水しか使えず十分ではなかった。
初期消火の機会を逃すと、火の勢いは増していく。
輪島市では地震発生直後に1メートル20センチ以上の津波が観測されている。
地震発生後から大津波警報や津波警報が出されていたため、海に行って海水を供給することはできなかった。
朝市通りには、古くからの木造の建物が多く、倒壊した建物や家財はより燃えやすくなっていた。
火は道路を覆うがれきを伝いながら、火の粉も風に舞って燃え広がっていった。
川端さんは「このままでは街が大変なことになる」と感じた。
その後、続々と入った消防は、ホースを何十本もつないで、離れた場所にある防火水槽や小学校のプールの水を使って放水した。
しかし、火はすでに街全体を飲み込むように広がっていて、水の力は及ばなかった。
消防団長 川端卓さん
「消しようがなかったんです。もうこれはダメだなと思いました。火の粉が頭の上を越えて向かい側の建物の屋根のほうに飛んでいくのがずっと見えていました。力不足でした」
津波警報が注意報に切り替わった翌2日の未明。
消防は海水をくみ上げて消火を始めた。
海から大量に供給された水で、ようやく火の勢いを食い止めることができた。
そして午前7時半、朝市通りの火災は鎮圧したが、辺り一帯の建物は焼け落ち、かつての賑やかな町並みはなくなっていた。
専門家「防火水槽 使えなかったことを教訓に」
今回の火災を専門家はどう受け止めているのか。
消防行政に詳しい東京理科大学の小林恭一教授はこう話す。「阪神・淡路大震災では、消火栓が断水で使用できず火災が広がった教訓から、断水が起きても利用できる防火水槽の整備が進められた。しかし今回、その防火水槽が使用できなかったことを教訓にしなければならない。防火水槽の取水口を離れた場所にも複数設けて、1か所に障害物があっても他の所を使える対策をとるべきだ。
木造家屋密集地が全国各地にあって、地震で火災が起きると、消防隊が活動できない場合があるので、木造家屋の不燃率を上げていくことも継続的にやっていかなければならない」
さらに、大津波警報や津波警報が出されていた中、浸水想定区域で消火活動を強いられたことについて、小林教授は「今回は津波が火災現場に到達しなかったが、津波が来ていれば多くの殉職者が出たおそれもある」として、国が消火活動の安全に対する明確な基準や制度を示すべきだと指摘している。
さまざまな想定外が重なり、被害が広がった輪島市の朝市通りでの火災。
想定外を減らし、被害を拡大させないための取り組みを進めなければならない。
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