豊臣秀次の歴史
豊臣家に翻弄された豊臣秀次の生涯
養子として諸家を渡り歩いた豊臣秀次
豊臣秀次が生まれたのは、豊臣秀吉が織田家の奉公衆として奮励していた頃の1568年(永禄11年)のこと。豊臣秀吉の姉「とも」と「三好吉房」(みよしよしふさ)の長男として、尾張国知多郡大高村(現在の愛知県名古屋市緑区)で誕生しました。

豊臣秀次の人生は、幼少期の時点で豊臣秀吉によって翻弄されることとなります。
当時、豊臣秀吉は織田信長の近江国(現在の滋賀県)侵攻に伴い、北近江の浅井氏の家臣である「宮部継潤」(みやべけいじゅん)を降伏させるために奔走していました。

豊臣秀吉は宮部継潤との交渉の際に、4歳の豊臣秀次(当時の名は治兵衛)を人質に差し出します。

このまま豊臣秀次は宮部家の養子となり、「宮部吉継」(みやべよしつぐ)と名乗るようになりました。そのあと、浅井氏が滅亡すると、宮部継潤は豊臣秀吉の臣下となったため、豊臣秀次も養子ではなくなることに。

しかし、豊臣秀吉は畿内(きない:山城・大和・河内・和泉・摂津の5ヵ国)での連携を強めるために、今度は河内国(大阪府羽曳野市)の「高屋城」の城主であった「三好康長」(みよしやすなが)のもとへ豊臣秀次を引き渡します。こうして、豊臣秀次は再び他家の養子となり、「三好信吉」(みよしのぶよし)と改名して三好家を相続することとなりました。

2代目関白に就任した豊臣秀次
1583年(天正11年)頃から、豊臣秀次は三好家で家臣団を束ねる地位となっていました。翌年の1584年(天正12年)、豊臣秀吉が織田信長の後継として天下統一への道を歩み始めると、豊臣秀次も羽柴姓(当時の豊臣秀吉の姓)に復帰して羽柴信吉と名乗り改め、天下人の甥として期待される存在となっていったのです。

この年に織田・徳川勢力と争った「小牧・長久手の戦い」では、将来を嘱望される豊臣秀次が総大将を務めましたが、有力家臣を失う大敗を喫します。この戦いで失態を演じた豊臣秀次は、豊臣秀吉から激しく叱責を受けたと言われています。
しかし、そのあとの「紀州征伐」と「四国征伐」では副将として活躍を見せ、豊臣秀次は汚名返上を果たすことに。そして、戦功を挙げた豊臣秀次は羽柴信吉から「羽柴秀次」と改名し、1586年(天正14年)には豊臣秀吉から豊臣姓を授かりました。

順調に出世を重ねていた豊臣秀次は、1591年(天正19年)に豊臣秀吉の嫡男である「鶴松」(つるまつ)が亡くなったことから、改めて豊臣秀吉の養子となり、正式な後継者としての道を歩み始めます。この頃、朝鮮侵略の「文禄の役」(ぶんろくのえき)を控えていた豊臣秀吉は、関白職を豊臣秀次に譲り、2代目関白として豊臣秀次は実質的な統治者となっていきました。

切腹に追いやられた「秀次事件」
ところが、1593年(文禄2年)に豊臣秀吉と「淀殿」(よどどの)との間に念願の実子が生まれると、豊臣秀次の運命は大きく転換することとなります。豊臣秀次は天下人後継者としての地位を確立していたにもかかわらず、実子の「お拾」(おひろい:のちの豊臣秀頼)の誕生により、豊臣秀吉から早々と隠居を促されることに。

豊臣秀吉はお拾を溺愛し、一刻も早く跡を継がせたいあまり、豊臣秀次の娘を生まれたばかりのお拾と婚約させようともしていたのです。こうした豊臣秀吉の対応に不安を募らせた豊臣秀次は、持病の喘息を悪化させ心神喪失状態へと陥っていきます。この頃から豊臣秀吉と豊臣秀次の関係は悪化していきました。

1595年(文禄4年)、豊臣秀次はついに謀反の疑いをかけられ、関白職を剥奪されてしまいます。豊臣秀次はこれを否定しましたが、豊臣秀吉に拝謁することは叶わず、わずかな従者とともに高野山へ追放されることに。

このとき、豊臣秀次は服装の指定や出入り禁止を命じられ、監禁に近いかたちで隠棲の身となってしまったのです。そして、追放が決まってからわずか1週間ほどで、豊臣秀次は切腹を命じられ、28歳で人生の幕を閉じました。
この豊臣秀次の処刑に伴い、妻妾・子・家臣とその家族を含む30人以上が京都三条河原で斬首となり、豊臣秀次の関係者は徹底的に皆殺しにされています。このように唐突に起きた「秀次事件」は、あまりに残忍な処断であったことから、諸大名や民衆にまで不安は広がり、のちに豊臣政権を崩壊に導くきっかけのひとつとなりました。

「秀次事件」その後の物語
三条河原で処刑された悲運な美少女
天下人の後継として地位を固めていたはずの豊臣秀次が、急転直下して自害することとなった「秀次事件」の真相は判明しておらず、いくつかの仮説が語られてきました。

一説によると、豊臣秀次は隠居を迫られた頃から自暴自棄になり、「殺生関白」と噂されるほど素行に問題があったとも言われています。
豊臣秀吉は切腹した豊臣秀次を三条河原に晒し首にして、そこで家族や家臣達を処刑させました。処刑者の中には、豊臣秀次に側室として嫁ぐ予定だった「最上義光」の娘である「駒姫」(こまひめ)の姿も。

当時、美少女と有名だった駒姫はまだ15歳と若く、正式に側室となる前だったため最上家をはじめとする諸大名から助命嘆願がされていました。この声に対し、豊臣秀吉は駒姫の処刑を免除するよう命じましたが、処刑場まであと一歩のところで間に合わず、他の側室達と同様に駒姫は処刑されてしまったと言われています。

このように、豊臣秀次の近親者は、幼い子どもや女性であっても例外なく許されず、悪人であるという見せしめが行われたのです。秀次事件による駒姫の死は、そのあとに最上家が「関ヶ原の戦い」で東軍の徳川方につくきっかけになったとも考えられています。

丰臣秀次(1568-1595)本名三好信吉,幼名治兵卫、万丸,通称小一郎、孙七郎,日本战国时代政治人物,公卿,尾张城主三好吉房之子,太政大臣丰臣秀吉的养子和外甥。秀吉在织田信长死后,大量任用亲戚,秀次在1583年时参与北伊势与贱岳的战争,之后的小牧长久手之战时,秀次对抗德川家康不仅大败,而且让丰臣秀吉帐下大将池田恒兴阵亡使得秀吉大怒,1585-1590这五年间屡立战功,因功受封清洲城主。次年,舅父丰臣秀吉次子鹤松病逝,秀次遂成为秀吉养子,同年继承关白之位,但在丰臣秀吉第三子秀赖诞生之后,秀吉对秀次便不再信任,秀次后来做出很多不人道之事,以至于得了个杀生关白的绰号,1595年,丰臣秀次被流放至高野山,随即自裁,同年,其妻女共三十八人被丰臣秀吉斩于京都三条河原。
秀次被杀后,太阁极力抹去秀次的痕迹,甚至当初秀吉自己耗费心血建造的聚乐第也因此焚毁。而德川幕府执政时期又极力抹去丰家的痕迹,事情的真相今天确实很难清楚。只是秀次在治政上名声颇佳,又是有良好修养的文化人,当时秀次交厚如山科言经,里村绍巴都是深知文雅的人(里村被称为是连歌史上最后的巨匠),秀次会做出种种逆行确实值得疑惑。

朝倉義景の歴史
朝倉宗滴と共に歩んだ前半生
わずか16歳で朝倉家当主に
「朝倉義景」(あさくらよしかげ)が、越前国(現在の福井県北東部)の戦国大名であり、「朝倉家」の10代当主であった「朝倉孝景」(あさくらたかかげ)の長男として生まれたのは、1533年(天文2年)。
この当時の朝倉家は、地方の一大名でありながら、父の朝倉孝景が、室町幕府の「御供衆」(おともしゅう:将軍が外出する際、お供の列に加わる役職)や「相伴衆」(しょうばんしゅう:将軍の宴の席などに、相伴役として従った者)に列せられるなど、同幕府より「直臣」(じきしん:主君直接の支配下にある家臣)同然の厚遇を受けていました。

越前国は、天皇や将軍が住む京都に近く、有事の際にはすぐに駆け付けられる場所であったこともあり、朝倉家は朝廷や室町幕府より、篤い(あつい)信頼を寄せられていたのです。

そんな朝倉家の全盛期に生まれた朝倉義景でしたが、1548年(天文17年)に、父・朝倉孝景が急死。わずか16歳で同家の家督を継ぎ、このタイミングで、幼名の「長夜叉」(ながやしゃ)から「朝倉延景」(あさくらのぶかげ)に改名しました。

若年であったため、政務や軍事などにおいて、朝倉家の重臣「朝倉宗滴」(あさくらそうてき)別称「朝倉教景」(あさくらのりかげ)の補佐を受けていたと考えられています。

そして1552年(天文21年)、室町幕府13代将軍「足利義輝」(あしかがよしてる)から「義」の字の偏諱(へんき:貴人などが用いた2字名のうちの1字)を賜り、朝倉義景を名乗るようになりました。このことからも朝倉家が、室町幕府と密接な関係を築いていたことが窺えるのです。
一向一揆と朝倉宗滴の死
朝倉家11代当主となった朝倉義景は、1555年(天文24年/弘治元年)、祖父の代より対立していた加賀国(現在の石川県南部)の「一向一揆」(いっこういっき)を駆逐するため、軍師としての才知に長けていた朝倉宗滴を総大将に据え、越前国に侵攻して来た一向一揆のもとへ、大人数の軍勢を送り込みます。

この他にも、能登国(石川県北部)や越前国の一向一揆と交戦しており、特に加賀国ではその半国を制圧する武功を挙げましたが、陣中において朝倉宗滴が病に倒れてしまいました。そののち、朝倉家が拠点としていた「一乗谷城」(いちじょうだにじょう:福井県福井市)へと戻りますが、そのまま亡くなってしまうことに。

朝倉一族の大黒柱である朝倉宗滴を失った朝倉義景の軍勢は、一向一揆の完全駆逐を成し得ることなく、帰国することとなったのです。
朝倉義景に訪れた天下人へのチャンス
政治や軍事などの実務面のみならず、精神面でもその支柱となっていた朝倉宗滴を亡くした朝倉義景。1565年(永禄8年)、そんな彼にとって転機となる事件が勃発します。

時の将軍・足利義輝が、「松永久通」(まつながひさみち)と「三好三人衆」らにより京都で暗殺されたのです。
そして、追手が来ることを恐れた足利義輝の弟「足利義昭」(あしかがよしあき)が、近江国(現在の滋賀県)や若狭国(現在の福井県西部)へ逃亡した末に、朝倉義景を頼って越前国までやって来ました。

朝倉義景は、足利義昭を迎え入れることを快諾し、居城の一乗谷城で匿う(かくまう)ことにしたのです。

そんななか、室町幕府の次期将軍候補に挙げられていた足利義昭は、兄の亡きあとに追われる身となっても、将軍の座に就くことを諦めきれず、上洛を嘱望するように。将軍になるためには朝廷からの任命が必要であったことから、足利義昭は何としてでも京都へ赴くことを強く願っていたのです。

そのため足利義昭は、朝倉義景に対して上洛に際しての警護を何度も要請しました。戦国大名にとって将軍となる人物を擁して上洛することは、天下人へ一歩近付くことを意味していましたが、朝倉義景はこれを断固拒否。

朝倉義景は1567年(永禄10年)に、足利義昭の仲介によって加賀一向一揆との和睦を結ぶなど、その威光を借りていたのにもかかわらず、共に上洛を果たすことについては、頑なに首を縦に振ろうとはしなかったのです。

その理由には、溺愛していた側室「小宰相」(こざいしょう)と、その間に儲けた息子「阿君丸」(くまぎりまる)を立て続けに亡くしたために、意気消沈し正常な判断を下せなかったとする説や、この頃には「三好家」の勢力が、すでに京都にまで拡大しており、朝倉家だけでは立ち向かえないと考えたとする説など様々に推測されています。いずれにしても朝倉義景は、人生における最大のチャンスを自ら逃してしまったのです。
そののち足利義昭は、一向に動く素振り(そぶり)を見せない朝倉義景に痺れ(しびれ)を切らし、美濃国(現在の岐阜県南部)を手中に収め、勢いに乗っていた「織田信長」のもとへと移ります。そして1568年(永禄11年)11月、足利義昭は織田信長に奉じられ、遂に上洛を果たすことになりました。

織田信長を追い詰めるも、朝倉家滅亡へ
金ヶ崎の戦いまでの経緯
織田信長と上洛した足利義昭は、やがて室町幕府15代将軍に就任します。そんななか、織田信長は足利義昭の名のもとに、朝倉義景へ上洛を命じました。ところが朝倉義景は、本国である越前国を長期間留守にする不安と、織田信長のもとに馳せ参じれば、臣下の礼を執らなければならないと考え、織田信長からの命令を拒絶。

しかし、この判断は足利義昭への謀反だと見なされ、織田信長に越前国を侵攻する大義名分を与えてしまうことになったのです。

そして1570年(永禄13年/元亀元年)4月、織田信長は「徳川家康」との連合軍約30,000人を引き連れて、朝倉家討伐を開始。同家が領していた若狭国へ入り、「金ヶ崎城」(かねがさきじょう/かながさきじょう:福井県敦賀市)別称「敦賀城」(つるがじょう)、その支城であった「天筒山城」(てづつやまじょう:福井県敦賀市)、さらには、近江国と越前国を結び、交通の要衝となっていた街道が集まる「疋壇城/疋田城」(ひきだじょう:福井県敦賀市)を次々に攻略。

しかし、朝倉義景の本拠である一乗谷へ向かう道中、織田信長は、妹「お市の方」(おいちのかた)の夫であり同盟関係にあった「浅井長政」(あざいながまさ)が反旗を翻した知らせを受けます。
浅井長政にとって朝倉家は、大名として独立する際に支援をしてくれた恩義のある存在。このような背景があり、浅井長政は織田信長と同盟を結ぶ条件として、「朝倉家への不戦の誓い」を立てていました。

これを破ったことを不服とした浅井長政は、北近江からの出兵を決意。織田・徳川連合軍の背後を詰めて、朝倉軍と共に挟撃しようとしていたのです。

これをいち早く察知した織田信長は戦場から潔く離脱し、京都へ戻ることを決めます。このときの撤退戦が、世に言う「金ヶ崎の戦い」です。このときの「殿」(しんがり:後退する部隊の最後尾にあって、敵の追撃を阻止する役割)は、「織田家」の家臣であった「豊臣秀吉」や「明智光秀」らが務めました。彼らのおかげで織田信長は、命からがら京都に逃げ延びることができたのです。
織田信長包囲網にほころびを作った朝倉義景
金ヶ崎の戦いで勝利を収めた朝倉・浅井連合軍でしたが、織田信長を取り逃がしたままであったため、当然、織田信長からの報復を受けることになります。

それが起こったのが、1570年(永禄13年/元亀元年)6月のこと。浅井長政の裏切りに激怒していた織田信長が、「浅井家」の居城「小谷城」(おだにじょう:滋賀県長浜市)を攻め、「姉川の戦い」(あねがわのたたかい)が勃発。朝倉義景は、「朝倉景健」(あさくらかげたけ)を総大将とした約8,000人の軍勢を、浅井長政のもとへ援軍として送り出します。浅井長政の軍勢約5,000人と合わせて、約13,000人にも及ぶ兵で織田・徳川連合軍と対峙しましたが、最終的には大敗を喫することになりました。

さらに1572年(元亀3年)、甲斐国(現在の山梨県)の「武田信玄」が、足利義昭の申し出に応じて「西上作戦」(せいじょうさくせん)を開始。
遠江国(とおとうみのくに:現在の静岡県西部)や三河国(現在の愛知県東部)へ進軍し、「徳川家」の配下にあった城を攻め落としていきます。

このとき、朝倉義景は武田信玄より浅井長政と協力して、織田信長を釘付けにしておくことを要請されていましたが、積雪と兵士の疲弊を理由に突如として越前へ帰国。

武田信玄と浅井長政、そしてすでに和を固めていた「石山本願寺」(大阪市中央区)の僧侶「顕如」(けんにょ)らとの「織田信長包囲網」に大きなほころびを作り、織田信長を討つ絶好のチャンスを自らの手で再び逃してしまったのです。

そして1573年(元亀4年/天正元年)、武田信玄が陣中で亡くなり、武田軍が甲斐国へ撤兵したことで、朝倉家の討伐に全力を注げるようになった織田信長は、約30,000人の兵と共に近江国へ侵攻します。

これに対して朝倉義景も約20,000人の軍勢を率いて応戦するも、越前国への撤退途中に織田軍からの厳しい追撃を受け、遂には織田信長が一乗谷にまで乱入して来たのです。

一乗谷城への帰還を果たした朝倉義景でしたが、この頃には家臣達から見放されており、同城の留守を預かっていたはずの兵士達も、その大部分が逃走してしまっていた状況にありました。そのため朝倉義景は従兄弟であり、自身の重臣であった「朝倉景鏡」(あさくらかげあきら)の勧めにより、「六坊賢松寺」(ろくぼうけんしょうじ:福井県大野市)へと逃れたのです。
しかしこのとき、織田信長と内通していた朝倉景鏡は、同寺院を包囲し、200騎の兵士達と共に朝倉義景を急襲。朝倉義景は自刃し、41歳の若さでこの世を去りました。

そののち織田信長は、家臣の「丹羽長秀」(にわながひで)に朝倉一族の殺害を命じ、朝倉家は滅亡することになったのです。

山下敦弘导演和竹村武司接受采访,揭秘山田孝之一系列伪纪录片的拍摄手法(1)

【禁断の証言】『山田孝之の東京都北区赤羽』を仕掛けた2人がフェイクドキュメンタリー制作裏を明かす【短期連載・てれびのスキマ「『フェイク』のつくりかた」】

テレビを通じてフェイクドキュメンタリーを知らしめた伝説のドラマ『山田孝之の東京都北区赤羽』(テレビ東京)。あくまでドラマという体裁ではあるものの、山田孝之が実際に赤羽に移住して生活する様子が映し出された。偶発的な出来事や生々しい会話の応酬が次々と起こり、どこまでが本当でどこからが嘘で演出なのかが分からなくなる内容で、視聴者を混乱と快楽の渦に巻き込んだ。

放送から9年が経って今まで明かされることのなかった制作の舞台裏を、番組を手がけた放送作家の竹村武司氏、映画監督の山下敦弘氏に、山田孝之氏の了承の上で訊くことができた。

昨今、テレビや配信を含めフェイクドキュメンタリー的な手法が注目を浴びてきている。もともとコアな人気があったこのジャンルだが、テレビで世間に広く届くブレイクスルーになった作品といえば、テレビ東京で深夜に放送された、いわゆる「山田孝之シリーズ」(『山田孝之の東京都北区赤羽』『山田孝之のカンヌ映画祭』『緊急生放送!山田孝之の元気を送るテレビ』)だろう。

その仕掛け人のひとりが構成作家の竹村武司。“日本のテレビ界でもっともフェイクドキュメンタリーを手がけた構成作家”と言って過言ではない人物だ。そして、松江哲明とともに共同監督を務めたのが『リンダ リンダ リンダ』『天然コケッコー』などの劇映画でも実績のある山下敦弘。今回、その竹村と山下に「墓場まで持っていこうと思っていた」(山下)という制作秘話を伺った(取材はそれぞれ個別でおこないました)。

2015年に放送された『山田孝之の東京都北区赤羽』は、清野とおるのノンフィクションマンガ『東京都北区赤羽』を原作にしたドキュメンタリードラマだ。タイトル通り、山田孝之が主演で本人役。当初、山田は、原作者でもあり作中にも登場する清野とおる役を演じる構想だった。しかし、ある時、本人役を演じるという発想が出てきた。

「それまでノンフィクションマンガをドラマ化するっていう発想がなかったので、それ自体新しかったと思うんですよ。設定がリアルの中でドラマをやるっていう発想を聞いた時に、“なるほど、これだ!”と思いましたね。

いい企画になるときって2回ブレイクスルーがあるんですよね。ノンフィクションマンガを実写化しようというのが第1のブレイクスルーで、主人公を本人役にするというのが第2のブレイクスルー。2回あると特殊なものになるというのは、なんとなく今でもあります。それを思いついた時、すべてが開ける感じがありましたね」(竹村)

山田孝之・竹村武司・松江哲明という座組に、松江とは旧知の仲だった山下敦弘が加わった。

物語は、山下が監督を務める映画の撮影中、突如スランプに陥った山田孝之が清野とおるのマンガ『東京都北区赤羽』に出会って感銘を受け、自分の軸を取り戻すため赤羽に移住するというもの。山田はそれを山下に伝え、赤羽での自分を撮影してほしいと依頼する。

「山田孝之が“役者としての軸を見失ったから赤羽に住みたい”と最初に常軌を逸した大きな嘘をつく。そうすると、その後に起きることが全部嘘でも本当にみえる。嘘の世界で起きた本当のことなので。だからその嘘の強度を上げるために、山田くんに振り回される人が必要だということで、松江監督が山下さんをキャスティングしました」(竹村)

「俺は監督というより“監督役”でしたね。回す役。撮影自体は松江くんのジャッジで進めていった感じでした。竹村さんとはこの時、初対面だったんですけど、“テレビの人”というのが第一印象。やっぱり映画人とはちょっと空気が違う。ある意味フットワークが軽い。映画の脚本家ってもう少し重い感じがするんだけど、竹村さんは空気というかノリを作っていく人だなと思いました」(山下)

#山田孝之##山田孝之[超话]#


发布     👍 0 举报 写留言 🖊   
✋热门推荐
  • 初夏易失眠,想拥有良好的睡眠,需注意以下❸ 点: ①勿空腹入睡,夏天代谢快,人容易饿,睡前一小时吃少量易消化的点心有助于入眠;注意选择低热量的点心,谨防长胖 ②
  • 正吃着我的这份看起来不怎么好看味道却不错的红糖鸡蛋的时候,接到了我曾经的辅导员兼现在的同事的电话,他知道了我今天工作上的委屈,所以特地打电话来交代我下次遇到今天
  • 我和妻子结婚这些年来,从来没有过她的工资,而且家里的零花钱基本都是我的负责。我是女孩子,不给我也是应该的,毕竟老刘家还要靠地理来传宗接代,我生了儿子也是随你的姓
  • 他的这些演员真的都很有自己的特点,每一个都让人印象深刻。40岁之前的脸是爹妈给的,40岁之后的脸才是自己的 相由心生,一个人面相的好坏与其心灵的善恶是相应的,
  • 所以希望子女有高些的文化水平也就无可厚非了,家里有五口人,我有姐姐和弟弟,怎么按理说在外人眼里我也应该是受家里保动漫卡通情侣头像无水印少女心护的妹妹,可是不然,
  • 大多数主动挽回的人,基本上都属于理性分手的情况,这也就意味着对方并不 是假借分手之机来提出任何条件,而是真的感觉到了你们两人已经不适合在一 起了,产生的矛盾无法
  • [拳头]永爱小淇,成毅加油@成毅#每日一画#行动开始,这两天搞的小破玩意儿,上班摸鱼是真滴快乐哈哈哈哈哈哈哈,今天想414不会的东西,比如手脚鼻子眼睛嘴(是的我
  • 虽然患癌的事实已经无法改变,但是由于职业的原因,医生可能更擅长追根溯源,找到自己患癌的危险因素,并调整生活方式,比如每天运动、保持愉快的心情、规律作息、健康饮食
  • 反过来也一样的,如果你前世欠对方的情债,结果相反,你一直在付出,也不容易得到对方的认可,还容易被对方嫌弃或者欺骗,甚至有的人还送了命,因为你来还债的,这段感情你
  • 14. 见惯了量产的温柔 所以对笨拙的真诚格外动心15. 所有的偏爱都会为你而来[心][心][心]来源/网络版权属于原作者#杨小小的微博#适合发朋友圈的高质量文
  • 让她没想到的是,5月8日,她就接到肖振宇的电话,她的母亲生活在河南邓州,母亲也在寻找他们姐弟俩。41年了,她常常梦见四川的两个孩子,他们还是小时候的模样,梦中两
  • Arma-Models.ru新品预告 #模型网新品预告# htt++ps://arma-model+s.r u/catalog/bronetekhnika/5
  • 【从“万国机车”到“国家名片”| 高铁装备制造的百年跨越之路】(三)中国工程院院士丁荣军:产业的发展不是三天两天就见成效1978年,邓小平访问日本。中车株洲所半
  • 为进一步提升黄山茶产业的知名度、美誉度,尤其为帮助本地茶农茶企卖茶,5月4日至7日,省农业农村厅和黄山市人民政府还在黄山区举办了全国名优红绿茶展示展销会、202
  • 去年笔电出口全国第一,开放型经济推动高质量发展疫情下的2020年3月,位于西永微电园的广达重庆工厂新增设了两条生产线。作为全国已获批城市中唯一兼有陆港型、港口型
  • 这样的健康减重方法不仅能有效地降低体重,不易反弹,持之以恒还可以锻炼出良好的体魄,降低患上某些疾病的风险。经过多年的研究和实践,麦克尔·莫斯利博士提出了戒糖瘦身
  • 从官方目前发布的消息可得知,Macan EV将采用VAG集团全新开发的PPE电动车模组化平台,比起现行已量产的MEB平台更趋高级化,未来Audi旗下电动车如
  • 曾经的鸽点灯塔是引导加州海岸线上往来船只的重要工具,现今已成为州立历史公园(State Historic Park)。矗立在加州公路线上的鸽点灯塔(Pigeon
  • #心语人生[超话]# [心]人生的幸福,一半要争,一半要随,所谓的争,是与时光赛跑,为了理想而不断地去努力,去争取,所谓的随,是与岁月握手言合,学会知足感恩,
  • 这支#493 E For Effortless正中红心就是御姐必备款啦,浓郁的酒红色真的是爱了。作为一枚妥妥的口红控,橘子又被这款MAC全新柔缎唇霜给彻底圈粉了