【blog】2022.09.03
ドードーの落下日誌(前編)
稽古中の日誌です。
観に行くか迷っている人や、劇のことをもっと知りたい人の助けになればと、日誌を書いてみました。
劇の内容に触れている箇所などあります。
「ドードーが落下する」を観に行く予定の方で、まだ読みたくない、読まずに観たいという方がいたらまだ読まないでくださいね。
稽古初日
本読み。
反省しかない。
加藤さんの言葉で「理解し合えない二人が友達でいれるのか」という言葉が印象に残る。
それから、信也(僕)が夏目(平原テツ)をどう受け取っていくかが大事と言われる。おそらくこの劇で最も大切なのがそれで、僕はそれが丁寧にできていなかった。
稽古終、取材。この劇について聞かれ、まだぼんやりしている中で答える。加藤さんがこの劇を立ち上げるということがどういうことか、信也がその瞬間や過去のことをどう見つめていたか、そういうことが全部つながっている。信也の心にはあの頃のことが刻まれている。忘れられない。忘れたくない。そんな劇を立ち上げたい。
稽古二日目
座組のみんながリラックスしていて本読みも昨日よりは良い感じ。加藤さんの、脚本や役柄の説明が入りながら全員で認識のすり合わせをして、ひたすら本読みをする。帰りの電車、加藤さんと二人きり。俺喋りっぱなし。浮かれてるなあ。
鶏肉を焼く。映画ムーンライトシャドウを見ながら眠る。
稽古三日目
加藤さんが「ドードーが落下する」について話してくれる時間がめっちゃ楽しいと気づく。何より本人が一番楽しそう。でも思えば劇団た組の公演の時、加藤さんはいつも楽しそうだ。緊張感もあるけど。三日目だけどとても疲労している。どうしてだろう。この脚本の持つ魔力、ポテンシャルを読めば読むほど感じる。ラストシーンについて少しだけヒントをもらう。この感覚懐かしい。加藤さんがくれるわずかなヒントを手繰り寄せて、深淵に辿り着きたい。
生姜焼きを作る。
稽古四日目
稽古場の待合室でする雑談が幸せ。初めて劇団た組に出演した時の稽古場に比べると目に見えて美しく贅沢な稽古場。でもあの頃の稽古場も少し恋しい。今日から立ち稽古が始まる。疲労はするけど楽しい。ドードーが落下するが立ち上がる。落下しながら立ち上がる。夏目さんの台詞を聞きながら思うことがある。この戯曲を読んだ人たちは、それぞれの夏目さんを語る。「引きずられる」「負の感情」そんな色々な言葉も聞いた。僕は劇中にも登場するようなその言葉を聞きながら信也の気持ちを想像する。周囲の人が夏目さんを語った時、彼は何を思っていたんだろう。理解し合えない人たちは友人でいられるのか。僕はこの劇で答えを追ってみたい。
頭の中でずっと台詞が聞こえて深夜まで眠れない。
稽古5日目
昼、あんかけ焼きそばを作る。
稽古場に向かう。Wikipediaでドードーを検索する。
のろますぎて絶滅した動物と出てくる。
人類によって絶滅した動物。
ポルトガル語でのろま。
アメリカ英語でdodoは滅びてしまった存在の代名詞。
警戒心が薄く人間が近づいても逃げないため素手で捕まえられたそう。
空を飛べない。
ドードーが落下する。
それは、捕まえられるのかな。
帰り道、訳もわからず寂しい。みんなとご飯に行きたい。信也についてアドバイスをくれた求一郎の言葉。
「信也、難しいよね。
寄り添い切るわけでもなく、
突き放し切るでもなく、
笑い物にし切るわけでもなく」
この劇の稽古に入ってから、一人の時間が耐え難く寂しい。
稽古6日目
書き忘れる。カルボナーラを作る。
稽古7日目
けっこうガッツリ稽古をして疲れる。加藤さんの脚本は台詞のニュアンスが曖昧なところへ向かうほど面白い。何度も体験している演出なのに劇団た組に参加する頃にはいつもそれを忘れている。つい一つの感情で台詞を表現しがちになってしまう。その度にこの場所に引き戻してもらってる。破壊と再生。
帰りの車内、古田新太さんのインタビューを読む。喫煙や飲酒によるコミュニケーションが減ったと。それが良い悪いの話ではなく、良い悪いの中間地点の話、つまり余白が大事だと。その余白を良くないからと切り捨てるのはどうかと。なるほど。
そう考えるとこの稽古場には、稽古場の外に休憩スペースのソファやらがあって、そこで皆が雑談できるのがありがたい。これは余白か。でもやっぱりまだ発言しづらい人もいるんだろうな。僕はそういうことを忘れがち。共演者の声を聞きたい。稽古終わりのご飯があればいいのに。きっとこの芝居は座組のコミュニケーションが深まるほど、良くなる、気がする。かぼちゃの煮物つくる。
稽古8日目
けっこう夏目さんの台詞が俺に侵食してくるなあ。
「ちょっと死にます」と電話をかけたくなる夏目の気持ちを想像してしまう。世界とのズレね。埋まらない孤独ね。どうして自分はこんなに孤独なんだろう?という純粋な疑問が襲ってくる夜ね。信也を演じながらずっと夏目さんの台詞聞いてるからなあ。
そっかあ。そう考えると、こんなとき夏目が電話をかけられるのは信也なのか。
肉豆腐つくる。夜、台詞にうなされて眠れない。明け方、クエンティンタランティーノに太極拳を教える夢を見る。
稽古9日目
帰りの電車。加藤さんと秋元と求一郎と。この電車の時間もいいよなあ。昨日、一昨日と一人で帰ってみて、やっぱり一緒に帰りたいなと。
今日は「ドードーが落下する」のあらすじを。
たくさんの人に見て欲しいな。
9月21日が初日なんだけど、その日はちょうど9年前に僕がオフィス作のオーディションを受けた日。松田美由紀さんと出会った日。僕にとっては忘れられない日なんだけど、その日に10年目の初日を迎えられることが嬉しい。
かぼちゃ煮物の残りでクリームパスタつくる。
「見えなかったら大丈夫と思ってたのに。実は価値が無いものは見えない方が世間はすごく良くなるんですよ。だから僕をそうしてもらったんですね、こいつに 」
イベント制作会社に勤める信也(藤原季節)と芸人の庄田(秋元龍太朗)は芸人仲間である夏目(平原テツ)からの電話に胸騒ぎを覚える。三年前、夏目は信也や友人達に飛び降りると電話をかけ、その後に失踪していた。しかしその二年後、再び信也に夏目から連絡がある。夏目は「とある事情」が原因で警察病院に入院していたそうで、その「とある事情」を説明する。それから信也達と夏目は再び集まるようになったものの、その「とある事情」は夏目と友人達の関係を変えてしまっていた。信也達と夏目との三年間を巡る青春失踪劇。
稽古10日目。書き忘れる。
湖で泳ぐ夢を見る。湖の底に落ちているビーサンを潜って取ろうとするけど取れない。
稽古11日目。書き忘れる。
体力の限界まで稽古をして、翌日は稽古やすみ。
稽古12日目。
台本を開くのが辛い。劇団た組の稽古をしていると確かにこの時間を通過する。膨大な台詞の反復と稽古場での台詞忘れを繰り返し続けていると、やがて夢に出てきてうなされるようになる。電車の中で台本を握りしめるけれどページを開くことが出来ない。
いよいよラストシーンの稽古が始まった。テツさんに圧倒されて台詞が出てこなくなる。悔しいし情けない。今まで演じた役の中で最も複雑な演技を求められている気がする。難しい。明日は頑張ろうという言葉すら出てこない。稽古場で諦めにも近い感情になったのは初めてのこと。稽古はいつもより早く17時半に終わる。
横浜駅まで歩いて帰ろうとしたら何人かがついてきてくれる。駅まで喋りながら帰る。楽しかった。みんなドードーがとにかく面白いと言っていて、それぞれの物語を語り合う。求一郎が通りがかった公園でいきなり鉄棒をし始める。誰も触れない。誰も観ていないところでポケットからスマホが落ちて画面が割れたらしい。
夜眠れないだろうなと思っていたらやっぱり全然眠れない。映画をかけてみたら最後まで観てしまう。毎日みんなと一緒にいるのに孤独を感じる。物語の持つ力せいか、演劇の持つ力のせいか。これまでもこんなに苦しかった?思い出せない。ただ、加藤拓也が書く物語の魔力、のようなものは確実に増していると思う。
稽古13日目。
細かい演出とシーンの反復が始まる。何度も何度も繰り返して細かい台詞のニュアンスや空白を詰めていく。20時近くまでみっちり稽古。加藤さんには珍しく長い時間稽古をしている。楽しくて時間が過ぎるのが早い。最後はみんながハイになって笑いが止まらなくなって、終了。
帰りの電車で加藤さんと話す。ラストに向かっていくヒントをもらう。少しずつ。
今週末に予定している通し稽古で何が見えるか。
夜はプリズムの放送。余韻を引きずりながら布団に入る。明日も稽古頑張ろう。
稽古14日目
後半の通し稽古。演じていてたまらなくなる。どうしようもない。楽しくて苦しい。
そのあと休憩を入れて返し稽古をするも疲れで全く台詞が出てこなくなる。
自分の体力のなさにショック。
今は夜中の3時。頭がハイになって眠れない日々が続く。演劇ってこんなに大変だったか?明日やれるのか自分。笑うしかない。
稽古15日目
今日から9月が始まった。
少し朦朧とした頭のまま、全力で返し稽古。
後半のシーンを繰り返し詰めていく。まだまだやることは沢山あるなあ。それでも少しずつ物語や関係性の輪郭が見えてきた気がする。輪郭が見えたらあとは中身を詰めていくだけ。
共演者とのコミュニケーションが深まってきた気がする。山脇辰哉がインスタで劇のことを書いていて嬉しくなる。みんなそれぞれドードーに対する思いがあるんだな。そう考えると、演じる底力が沸いてくる。
明日は初の全編、通し稽古。スタッフさんが来てくれるらしい。がんばろう。
稽古16日目
映画も見ない。本も読まない。ご飯も作らない。
芝居のことだけ考えて、だんだん無欲になっていく自分がいる。稽古終わり、加藤さんに連れられて足ツボマッサージに行く。足ツボを押されながら、そういえば新しい靴が欲しいなあとか、明日は日用品を買わなきゃとか、色んなことを思い出していく。
今日の通し稽古は大失敗だった。言われたことできてないし、早口だし、力んでるし。でも、まあ、失敗しておいて良かった。とにかく身も心もリラックスしてフラットな状態で挑む大切さを知ることが出来た。おやすみ。
https://t.cn/A6SA0w14
https://t.cn/A6S0b0dr
ドードーの落下日誌(前編)
稽古中の日誌です。
観に行くか迷っている人や、劇のことをもっと知りたい人の助けになればと、日誌を書いてみました。
劇の内容に触れている箇所などあります。
「ドードーが落下する」を観に行く予定の方で、まだ読みたくない、読まずに観たいという方がいたらまだ読まないでくださいね。
稽古初日
本読み。
反省しかない。
加藤さんの言葉で「理解し合えない二人が友達でいれるのか」という言葉が印象に残る。
それから、信也(僕)が夏目(平原テツ)をどう受け取っていくかが大事と言われる。おそらくこの劇で最も大切なのがそれで、僕はそれが丁寧にできていなかった。
稽古終、取材。この劇について聞かれ、まだぼんやりしている中で答える。加藤さんがこの劇を立ち上げるということがどういうことか、信也がその瞬間や過去のことをどう見つめていたか、そういうことが全部つながっている。信也の心にはあの頃のことが刻まれている。忘れられない。忘れたくない。そんな劇を立ち上げたい。
稽古二日目
座組のみんながリラックスしていて本読みも昨日よりは良い感じ。加藤さんの、脚本や役柄の説明が入りながら全員で認識のすり合わせをして、ひたすら本読みをする。帰りの電車、加藤さんと二人きり。俺喋りっぱなし。浮かれてるなあ。
鶏肉を焼く。映画ムーンライトシャドウを見ながら眠る。
稽古三日目
加藤さんが「ドードーが落下する」について話してくれる時間がめっちゃ楽しいと気づく。何より本人が一番楽しそう。でも思えば劇団た組の公演の時、加藤さんはいつも楽しそうだ。緊張感もあるけど。三日目だけどとても疲労している。どうしてだろう。この脚本の持つ魔力、ポテンシャルを読めば読むほど感じる。ラストシーンについて少しだけヒントをもらう。この感覚懐かしい。加藤さんがくれるわずかなヒントを手繰り寄せて、深淵に辿り着きたい。
生姜焼きを作る。
稽古四日目
稽古場の待合室でする雑談が幸せ。初めて劇団た組に出演した時の稽古場に比べると目に見えて美しく贅沢な稽古場。でもあの頃の稽古場も少し恋しい。今日から立ち稽古が始まる。疲労はするけど楽しい。ドードーが落下するが立ち上がる。落下しながら立ち上がる。夏目さんの台詞を聞きながら思うことがある。この戯曲を読んだ人たちは、それぞれの夏目さんを語る。「引きずられる」「負の感情」そんな色々な言葉も聞いた。僕は劇中にも登場するようなその言葉を聞きながら信也の気持ちを想像する。周囲の人が夏目さんを語った時、彼は何を思っていたんだろう。理解し合えない人たちは友人でいられるのか。僕はこの劇で答えを追ってみたい。
頭の中でずっと台詞が聞こえて深夜まで眠れない。
稽古5日目
昼、あんかけ焼きそばを作る。
稽古場に向かう。Wikipediaでドードーを検索する。
のろますぎて絶滅した動物と出てくる。
人類によって絶滅した動物。
ポルトガル語でのろま。
アメリカ英語でdodoは滅びてしまった存在の代名詞。
警戒心が薄く人間が近づいても逃げないため素手で捕まえられたそう。
空を飛べない。
ドードーが落下する。
それは、捕まえられるのかな。
帰り道、訳もわからず寂しい。みんなとご飯に行きたい。信也についてアドバイスをくれた求一郎の言葉。
「信也、難しいよね。
寄り添い切るわけでもなく、
突き放し切るでもなく、
笑い物にし切るわけでもなく」
この劇の稽古に入ってから、一人の時間が耐え難く寂しい。
稽古6日目
書き忘れる。カルボナーラを作る。
稽古7日目
けっこうガッツリ稽古をして疲れる。加藤さんの脚本は台詞のニュアンスが曖昧なところへ向かうほど面白い。何度も体験している演出なのに劇団た組に参加する頃にはいつもそれを忘れている。つい一つの感情で台詞を表現しがちになってしまう。その度にこの場所に引き戻してもらってる。破壊と再生。
帰りの車内、古田新太さんのインタビューを読む。喫煙や飲酒によるコミュニケーションが減ったと。それが良い悪いの話ではなく、良い悪いの中間地点の話、つまり余白が大事だと。その余白を良くないからと切り捨てるのはどうかと。なるほど。
そう考えるとこの稽古場には、稽古場の外に休憩スペースのソファやらがあって、そこで皆が雑談できるのがありがたい。これは余白か。でもやっぱりまだ発言しづらい人もいるんだろうな。僕はそういうことを忘れがち。共演者の声を聞きたい。稽古終わりのご飯があればいいのに。きっとこの芝居は座組のコミュニケーションが深まるほど、良くなる、気がする。かぼちゃの煮物つくる。
稽古8日目
けっこう夏目さんの台詞が俺に侵食してくるなあ。
「ちょっと死にます」と電話をかけたくなる夏目の気持ちを想像してしまう。世界とのズレね。埋まらない孤独ね。どうして自分はこんなに孤独なんだろう?という純粋な疑問が襲ってくる夜ね。信也を演じながらずっと夏目さんの台詞聞いてるからなあ。
そっかあ。そう考えると、こんなとき夏目が電話をかけられるのは信也なのか。
肉豆腐つくる。夜、台詞にうなされて眠れない。明け方、クエンティンタランティーノに太極拳を教える夢を見る。
稽古9日目
帰りの電車。加藤さんと秋元と求一郎と。この電車の時間もいいよなあ。昨日、一昨日と一人で帰ってみて、やっぱり一緒に帰りたいなと。
今日は「ドードーが落下する」のあらすじを。
たくさんの人に見て欲しいな。
9月21日が初日なんだけど、その日はちょうど9年前に僕がオフィス作のオーディションを受けた日。松田美由紀さんと出会った日。僕にとっては忘れられない日なんだけど、その日に10年目の初日を迎えられることが嬉しい。
かぼちゃ煮物の残りでクリームパスタつくる。
「見えなかったら大丈夫と思ってたのに。実は価値が無いものは見えない方が世間はすごく良くなるんですよ。だから僕をそうしてもらったんですね、こいつに 」
イベント制作会社に勤める信也(藤原季節)と芸人の庄田(秋元龍太朗)は芸人仲間である夏目(平原テツ)からの電話に胸騒ぎを覚える。三年前、夏目は信也や友人達に飛び降りると電話をかけ、その後に失踪していた。しかしその二年後、再び信也に夏目から連絡がある。夏目は「とある事情」が原因で警察病院に入院していたそうで、その「とある事情」を説明する。それから信也達と夏目は再び集まるようになったものの、その「とある事情」は夏目と友人達の関係を変えてしまっていた。信也達と夏目との三年間を巡る青春失踪劇。
稽古10日目。書き忘れる。
湖で泳ぐ夢を見る。湖の底に落ちているビーサンを潜って取ろうとするけど取れない。
稽古11日目。書き忘れる。
体力の限界まで稽古をして、翌日は稽古やすみ。
稽古12日目。
台本を開くのが辛い。劇団た組の稽古をしていると確かにこの時間を通過する。膨大な台詞の反復と稽古場での台詞忘れを繰り返し続けていると、やがて夢に出てきてうなされるようになる。電車の中で台本を握りしめるけれどページを開くことが出来ない。
いよいよラストシーンの稽古が始まった。テツさんに圧倒されて台詞が出てこなくなる。悔しいし情けない。今まで演じた役の中で最も複雑な演技を求められている気がする。難しい。明日は頑張ろうという言葉すら出てこない。稽古場で諦めにも近い感情になったのは初めてのこと。稽古はいつもより早く17時半に終わる。
横浜駅まで歩いて帰ろうとしたら何人かがついてきてくれる。駅まで喋りながら帰る。楽しかった。みんなドードーがとにかく面白いと言っていて、それぞれの物語を語り合う。求一郎が通りがかった公園でいきなり鉄棒をし始める。誰も触れない。誰も観ていないところでポケットからスマホが落ちて画面が割れたらしい。
夜眠れないだろうなと思っていたらやっぱり全然眠れない。映画をかけてみたら最後まで観てしまう。毎日みんなと一緒にいるのに孤独を感じる。物語の持つ力せいか、演劇の持つ力のせいか。これまでもこんなに苦しかった?思い出せない。ただ、加藤拓也が書く物語の魔力、のようなものは確実に増していると思う。
稽古13日目。
細かい演出とシーンの反復が始まる。何度も何度も繰り返して細かい台詞のニュアンスや空白を詰めていく。20時近くまでみっちり稽古。加藤さんには珍しく長い時間稽古をしている。楽しくて時間が過ぎるのが早い。最後はみんながハイになって笑いが止まらなくなって、終了。
帰りの電車で加藤さんと話す。ラストに向かっていくヒントをもらう。少しずつ。
今週末に予定している通し稽古で何が見えるか。
夜はプリズムの放送。余韻を引きずりながら布団に入る。明日も稽古頑張ろう。
稽古14日目
後半の通し稽古。演じていてたまらなくなる。どうしようもない。楽しくて苦しい。
そのあと休憩を入れて返し稽古をするも疲れで全く台詞が出てこなくなる。
自分の体力のなさにショック。
今は夜中の3時。頭がハイになって眠れない日々が続く。演劇ってこんなに大変だったか?明日やれるのか自分。笑うしかない。
稽古15日目
今日から9月が始まった。
少し朦朧とした頭のまま、全力で返し稽古。
後半のシーンを繰り返し詰めていく。まだまだやることは沢山あるなあ。それでも少しずつ物語や関係性の輪郭が見えてきた気がする。輪郭が見えたらあとは中身を詰めていくだけ。
共演者とのコミュニケーションが深まってきた気がする。山脇辰哉がインスタで劇のことを書いていて嬉しくなる。みんなそれぞれドードーに対する思いがあるんだな。そう考えると、演じる底力が沸いてくる。
明日は初の全編、通し稽古。スタッフさんが来てくれるらしい。がんばろう。
稽古16日目
映画も見ない。本も読まない。ご飯も作らない。
芝居のことだけ考えて、だんだん無欲になっていく自分がいる。稽古終わり、加藤さんに連れられて足ツボマッサージに行く。足ツボを押されながら、そういえば新しい靴が欲しいなあとか、明日は日用品を買わなきゃとか、色んなことを思い出していく。
今日の通し稽古は大失敗だった。言われたことできてないし、早口だし、力んでるし。でも、まあ、失敗しておいて良かった。とにかく身も心もリラックスしてフラットな状態で挑む大切さを知ることが出来た。おやすみ。
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快乐其实很简单,只要你拥有一颗知足常乐的心。
阳光,雨露,健康的身体,轻快的音乐,都可以是你快乐的源泉。
有一个知足的心态,才能懂得感恩生活,珍惜现在的时光,进而体验生活中一点一滴的幸福。
“世间无事,烦恼来自逞强。所求太多,心就无处安放。”
人的一生中会得到很多东西,也会失去很多东西。有舍必有得,有得必有失。以什么样的心态去面对生活,决定了我们的心情。
人的一生里,会遇到许多不如意的事情,以一种坦然的心态,面对世事纷扰。不求万事皆如意,只求内心清静无憾,足矣。
阳光,雨露,健康的身体,轻快的音乐,都可以是你快乐的源泉。
有一个知足的心态,才能懂得感恩生活,珍惜现在的时光,进而体验生活中一点一滴的幸福。
“世间无事,烦恼来自逞强。所求太多,心就无处安放。”
人的一生中会得到很多东西,也会失去很多东西。有舍必有得,有得必有失。以什么样的心态去面对生活,决定了我们的心情。
人的一生里,会遇到许多不如意的事情,以一种坦然的心态,面对世事纷扰。不求万事皆如意,只求内心清静无憾,足矣。
(劝修念佛法门)圆瑛法师讲述
世间有人。发心念佛。不明念佛旨趣。或问之曰。汝精进念佛。所求何事。则答之曰。为修来世。如是之人。就是愿头打错了。我佛所以立此念佛法门。乃是为著娑婆世界众生。备受众苦。逼迫心身。无法解除。故教人念佛。求生西方。可以离娑婆之苦。得极乐之乐。今念佛不愿往生西方。乃愿再生人世。享受人间福乐。实为可惜。殊不知人间。万般皆是苦、空、无常。何有真乐。纵得富贵荣华。得受世间财、色、名、食、睡。五欲之乐。此等快乐。都非真乐。古德云、‘只这色身。谁信身为苦本。尽贪世乐。不知乐是苦因。’
又经云、‘财色名食睡。地狱五条根。五欲不除。尘不可出。’若求来世福报。转生富贵之家。享受福乐。那知人间富贵花间露。世上功名水上沤。只恐福中不肯修福。报终必堕苦趣。其受乐之日短。而受苦之日长也。狮子峰云、个个恋色贪财。尽是失人身捷径。日日饮酒食肉。无非种地狱深根。眼前图快活一时。死后受苦辛万劫。
念佛、本来可以离苦得乐。若不求出娑婆。求生极乐。则身在娑婆苦海。苦终不离。娑婆是极苦世界。其苦无量。说不能尽。今按人中略说八苦。举世之人。皆不能免。
一、生苦。世人都是随业受报。依前生之业缘。与父缘母缘。三缘和合。中阴身方得投胎。初见父母交媾。忽动欲念。由是流爱为种。纳想成胎。处在母身。生脏之下。熟脏之上。中为胞胎。母吃热时。热深难忍。几如镬汤地狱。母吃冷时。冷触压迫。无异寒冰地狱。幽囚十月。臭秽杂处。是名胎狱。又当出胎之时。胎衣脱下。便受风刀割身之苦。故孩儿出世时。便就哇哇叫苦。凡为人者。莫不皆然。
二、老苦。岁月迁流。形容变易。眼花耳聋。发白面皱。身枯齿落。力弱气销。凡事不得自由。一切仰赖于人。楞严会上。佛问波斯匿王。‘大王汝之形容。应不顿朽。王言、变化密移。我诚不觉。寒暑迁流。渐至如此。我念孩孺之时。肤腠润泽。年至长成。血气充满。而今颓龄。迫于衰耄。发白面皱。逮将不久。’如此可见虽是国王。贵为天子。富有四海之内。老苦亦所不免。古人云、‘黄金不是千年业。红日能消两鬓霜。’
三、病苦。人身四大不调。百种病生。世间少有一生无病之人。古德云、‘病到方知身是苦。健时都为别人忙。’姑勿论沉痀酷疾。即使齿痛头晕。则不自在。行坐不安。寝食顿减。以此例知。一切诸病。无非是苦。三国张飞。性情刚勇。对诸葛武侯曰。我谁人都不怕。于是武侯掌中书一病字。与他一看。问曰、这个汝怕不怕。张飞大声疾呼曰。嗳呀可怕。足见病苦临身。即英雄力士。亦复无可奈何。吾人能于病中。一心念佛。不为病苦所恼。如是则临欲命终。百苦交煎之时。自然亦有把握。
四、死苦。经云、‘因缘和合。虚妄有生。因缘别离。虚妄名灭。’人身有生。则必有死。生时假借四大以为身。死时则四大分离。喻如生牛剥皮。痛苦万状。皮肉筋骨。为地大。津液精血。为水大。周身暖触。为火大。鼻息出入。手足运转。为风大。死时风大先离。故鼻息断绝。手足不动。次火大离时。身发冷触。三水大离时。尸水流溢。只剩皮包骨头之地大。谚云、‘白骨山头化土泥’是也。死之一事。为世人所必经之事。无一人可以幸免。吾人未至死时。当善观察。世间最大为生死。白玉黄金尽枉然。纵使妻儿相惜。无计留君。假饶骨肉满前。有谁替汝。我看他人死。我心热如火。不是热他人。也要轮到我。古人云、‘红红白白莫相瞒。无位真人赤肉团。死去不如猪狗相。即今便作死尸看。’猪狗死时。其肉尚有人要买。人若死时。谁人肯要。
五、爱别离苦。爱即恩爱。世间恩爱。莫过于父母兄弟。妻子眷属。最难舍离。总望常相聚会。举家欢乐。倘若别离。则心如刀割。即所谓千种情怀千种恨。一分恩爱一分忧。殊不知人生聚散。本属无常。有合则必有离。何须痛苦。古云、‘父母恩深终有别。夫妻义重也分离。人生似鸟同林宿。大限来时各自飞。’
六、冤憎会苦。冤即冤家。憎乃憎嫌。此皆宿业所感。重者结冤构仇。轻者厌憎嫉视。冤憎之人。若能远离。其苦自无。那知业力使然。欲离偏合。或为父子。或为兄弟。或为夫妇。或为朋友。冤则索命讨债。憎则刺激精神。因缘聚会。无法脱离。亦如哑子吃黄连(莲)。有苦说不出。罗状元诗云。是是非非何日了。烦烦恼恼几时休。
七、求不得苦。世间那有十足之人。若有不足。则必有求。所求顺遂。自必称心。喜形于色、若求不得。竟生懊恼。日坐愁城。此等都是痴迷不觉。当知得失有定。贫富在天。岂不闻、‘世事忙忙似水流。休将名利挂心头。粗茶淡饭随缘过。富贵荣华莫强求。’
八、五阴炽盛苦。五阴、乃色、受、想、行、识。五种烦恼之火。焚烧众生之心。烦恼若重。如火炽盛之貌。或依内根外尘。所起烦恼。属色阴。或依五识。领纳五尘。所起烦恼。属受阴。或依意识。想念法尘。所起烦恼。属想阴。或依七识。恒审思量。所起烦恼。属行阴。或依八识。微细流注。所起烦恼。属识阴。前七种苦是别。别指一种而言。此一种苦是总。总括诸苦而说。真是世事万般皆是苦。何如及早念弥陀。
以上八苦。但就人道略说。无论智愚贤不肖。皆不能免。所谓千人千般苦。苦苦不相同。若发愿修来世。再来做人。还是吃苦。岂不是打错了愿头。我平日教人念佛。一定要求生净土。方能离苦得乐。弥陀净土。是无有众苦。但受诸乐。超过诸佛国土。念佛之人。不但不可愿来生。再来人间享福。并不可愿身后。生天受乐。以天福亦有终尽。‘八万劫总是空亡。三千界悉从沦没。’永嘉禅师云。‘布施持戒生天福。犹如仰箭射虚空。势力尽、箭还坠。招得来生不如意。’当知求生净土。经称少善不生。多福乃致。省庵大师云。‘言多福。则莫若执持名号。言多善。则莫若发广大心。是以暂持圣号。胜于布施百年。一发大心。超过修行历劫。盖念佛本期作佛。大心不发。则虽念奚为。发心原为修行。净土不生。则虽发易退。是则下菩提种。附以念佛之犁。道果自然增长。乘大愿船。入于净土之海。西方决定往生。’故劝念佛之人。莫求天上人间福报。如以明珠。而贸一食一衣之饱暖。岂不可惜。应当愿生净土。如弥陀经。佛劝发愿云。‘众生闻者。应当发愿。愿生彼国。’
世间有人。发心念佛。不明念佛旨趣。或问之曰。汝精进念佛。所求何事。则答之曰。为修来世。如是之人。就是愿头打错了。我佛所以立此念佛法门。乃是为著娑婆世界众生。备受众苦。逼迫心身。无法解除。故教人念佛。求生西方。可以离娑婆之苦。得极乐之乐。今念佛不愿往生西方。乃愿再生人世。享受人间福乐。实为可惜。殊不知人间。万般皆是苦、空、无常。何有真乐。纵得富贵荣华。得受世间财、色、名、食、睡。五欲之乐。此等快乐。都非真乐。古德云、‘只这色身。谁信身为苦本。尽贪世乐。不知乐是苦因。’
又经云、‘财色名食睡。地狱五条根。五欲不除。尘不可出。’若求来世福报。转生富贵之家。享受福乐。那知人间富贵花间露。世上功名水上沤。只恐福中不肯修福。报终必堕苦趣。其受乐之日短。而受苦之日长也。狮子峰云、个个恋色贪财。尽是失人身捷径。日日饮酒食肉。无非种地狱深根。眼前图快活一时。死后受苦辛万劫。
念佛、本来可以离苦得乐。若不求出娑婆。求生极乐。则身在娑婆苦海。苦终不离。娑婆是极苦世界。其苦无量。说不能尽。今按人中略说八苦。举世之人。皆不能免。
一、生苦。世人都是随业受报。依前生之业缘。与父缘母缘。三缘和合。中阴身方得投胎。初见父母交媾。忽动欲念。由是流爱为种。纳想成胎。处在母身。生脏之下。熟脏之上。中为胞胎。母吃热时。热深难忍。几如镬汤地狱。母吃冷时。冷触压迫。无异寒冰地狱。幽囚十月。臭秽杂处。是名胎狱。又当出胎之时。胎衣脱下。便受风刀割身之苦。故孩儿出世时。便就哇哇叫苦。凡为人者。莫不皆然。
二、老苦。岁月迁流。形容变易。眼花耳聋。发白面皱。身枯齿落。力弱气销。凡事不得自由。一切仰赖于人。楞严会上。佛问波斯匿王。‘大王汝之形容。应不顿朽。王言、变化密移。我诚不觉。寒暑迁流。渐至如此。我念孩孺之时。肤腠润泽。年至长成。血气充满。而今颓龄。迫于衰耄。发白面皱。逮将不久。’如此可见虽是国王。贵为天子。富有四海之内。老苦亦所不免。古人云、‘黄金不是千年业。红日能消两鬓霜。’
三、病苦。人身四大不调。百种病生。世间少有一生无病之人。古德云、‘病到方知身是苦。健时都为别人忙。’姑勿论沉痀酷疾。即使齿痛头晕。则不自在。行坐不安。寝食顿减。以此例知。一切诸病。无非是苦。三国张飞。性情刚勇。对诸葛武侯曰。我谁人都不怕。于是武侯掌中书一病字。与他一看。问曰、这个汝怕不怕。张飞大声疾呼曰。嗳呀可怕。足见病苦临身。即英雄力士。亦复无可奈何。吾人能于病中。一心念佛。不为病苦所恼。如是则临欲命终。百苦交煎之时。自然亦有把握。
四、死苦。经云、‘因缘和合。虚妄有生。因缘别离。虚妄名灭。’人身有生。则必有死。生时假借四大以为身。死时则四大分离。喻如生牛剥皮。痛苦万状。皮肉筋骨。为地大。津液精血。为水大。周身暖触。为火大。鼻息出入。手足运转。为风大。死时风大先离。故鼻息断绝。手足不动。次火大离时。身发冷触。三水大离时。尸水流溢。只剩皮包骨头之地大。谚云、‘白骨山头化土泥’是也。死之一事。为世人所必经之事。无一人可以幸免。吾人未至死时。当善观察。世间最大为生死。白玉黄金尽枉然。纵使妻儿相惜。无计留君。假饶骨肉满前。有谁替汝。我看他人死。我心热如火。不是热他人。也要轮到我。古人云、‘红红白白莫相瞒。无位真人赤肉团。死去不如猪狗相。即今便作死尸看。’猪狗死时。其肉尚有人要买。人若死时。谁人肯要。
五、爱别离苦。爱即恩爱。世间恩爱。莫过于父母兄弟。妻子眷属。最难舍离。总望常相聚会。举家欢乐。倘若别离。则心如刀割。即所谓千种情怀千种恨。一分恩爱一分忧。殊不知人生聚散。本属无常。有合则必有离。何须痛苦。古云、‘父母恩深终有别。夫妻义重也分离。人生似鸟同林宿。大限来时各自飞。’
六、冤憎会苦。冤即冤家。憎乃憎嫌。此皆宿业所感。重者结冤构仇。轻者厌憎嫉视。冤憎之人。若能远离。其苦自无。那知业力使然。欲离偏合。或为父子。或为兄弟。或为夫妇。或为朋友。冤则索命讨债。憎则刺激精神。因缘聚会。无法脱离。亦如哑子吃黄连(莲)。有苦说不出。罗状元诗云。是是非非何日了。烦烦恼恼几时休。
七、求不得苦。世间那有十足之人。若有不足。则必有求。所求顺遂。自必称心。喜形于色、若求不得。竟生懊恼。日坐愁城。此等都是痴迷不觉。当知得失有定。贫富在天。岂不闻、‘世事忙忙似水流。休将名利挂心头。粗茶淡饭随缘过。富贵荣华莫强求。’
八、五阴炽盛苦。五阴、乃色、受、想、行、识。五种烦恼之火。焚烧众生之心。烦恼若重。如火炽盛之貌。或依内根外尘。所起烦恼。属色阴。或依五识。领纳五尘。所起烦恼。属受阴。或依意识。想念法尘。所起烦恼。属想阴。或依七识。恒审思量。所起烦恼。属行阴。或依八识。微细流注。所起烦恼。属识阴。前七种苦是别。别指一种而言。此一种苦是总。总括诸苦而说。真是世事万般皆是苦。何如及早念弥陀。
以上八苦。但就人道略说。无论智愚贤不肖。皆不能免。所谓千人千般苦。苦苦不相同。若发愿修来世。再来做人。还是吃苦。岂不是打错了愿头。我平日教人念佛。一定要求生净土。方能离苦得乐。弥陀净土。是无有众苦。但受诸乐。超过诸佛国土。念佛之人。不但不可愿来生。再来人间享福。并不可愿身后。生天受乐。以天福亦有终尽。‘八万劫总是空亡。三千界悉从沦没。’永嘉禅师云。‘布施持戒生天福。犹如仰箭射虚空。势力尽、箭还坠。招得来生不如意。’当知求生净土。经称少善不生。多福乃致。省庵大师云。‘言多福。则莫若执持名号。言多善。则莫若发广大心。是以暂持圣号。胜于布施百年。一发大心。超过修行历劫。盖念佛本期作佛。大心不发。则虽念奚为。发心原为修行。净土不生。则虽发易退。是则下菩提种。附以念佛之犁。道果自然增长。乘大愿船。入于净土之海。西方决定往生。’故劝念佛之人。莫求天上人间福报。如以明珠。而贸一食一衣之饱暖。岂不可惜。应当愿生净土。如弥陀经。佛劝发愿云。‘众生闻者。应当发愿。愿生彼国。’
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