兵法三十六計
概要
1941年、邠県(現在の陝西省咸陽市彬州市)において再発見され、時流に乗って大量に出版された。様々な時代の故事・教訓がちりばめられているため、中国では兵法書として世界的に有名な『孫子』よりも民間において広まり、学校での教育も相まって現代人の思想や行動原理にも影響を与えている[2]。

戦術とは関連が薄い内容も含まれ、権威付けのために『易経』からの引用を使って解説しているなど、純粋な兵法書としては荒削りな部分が見られるためか、『孫子』などの武経七書と比較し軍事面では評価が低い。

この本は『南斉書』の王敬則伝「敬則曰、『檀公三十六策、走是上計』」の語源である。

兵法三十六計
勝戦計
こちらが戦いの主導権を握っている場合の定石。

瞞天過海 - 敵に繰り返し行動を見せつけて見慣れさせておき、油断を誘って攻撃する。
囲魏救趙 - 敵を一箇所に集中させず、奔走させて疲れさせてから撃破する。
借刀殺人 - 同盟者や第三者が敵を攻撃するよう仕向ける。
以逸待労 - 直ちに戦闘するのではなく、敵を撹乱して主導権を握り、敵の疲弊を誘う。
趁火打劫 - 敵の被害や混乱に乗じて行動し、利益を得る。
声東撃西 - 陽動によって敵の動きを翻弄し、防備を崩してから攻める。
敵戦計
余裕を持って戦える、優勢の場合の作戦。

無中生有 - 偽装工作をわざと露見させ、相手が油断した所を攻撃する。
暗渡陳倉 - 偽装工作によって攻撃を隠蔽し、敵を奇襲する。
隔岸観火 - 敵の秩序に乱れが生じているなら、あえて攻めずに放置して敵の自滅を待つ。
笑裏蔵刀 - 敵を攻撃する前に友好的に接しておき、油断を誘う。
李代桃僵 - 不要な部分を切り捨て、全体の被害を抑えつつ勝利する。
順手牽羊 - 敵の統制の隙を突き、悟られないように細かく損害を与える。
攻戦計
相手が一筋縄でいかない場合の作戦。

打草驚蛇 - 状況が分らない場合は偵察を出し、反応を探る。
借屍還魂 - 死んだ者や他人の大義名分を持ち出して、自らの目的を達する。
調虎離山 - 敵を本拠地から誘い出し、味方に有利な地形で戦う。
欲擒姑縦 - 敵をわざと逃がして気を弛ませたところを捕らえる。
抛磚引玉 - 自分にとっては必要のないものを囮にし、敵をおびき寄せる。
擒賊擒王 - 敵の主力や、中心人物を捕らえることで、敵を弱体化する。
混戦計
相手がかなり手ごわい場合の作戦。

釜底抽薪 - 敵軍の兵站や大義名分を壊して、敵の活動を抑制し、あわよくば自壊させる。
混水摸魚 - 敵の内部を混乱させ、敵の行動を誤らせたり、自分の望む行動を取らせる。
金蝉脱殻 - あたかも現在地に留まっているように見せかけ、主力を撤退させる。
関門捉賊 - 敵の退路を閉ざしてから包囲殲滅する。
遠交近攻 - 遠くの相手と同盟を組み、近くの相手を攻める。
仮道伐虢 - 攻略対象を買収等により分断して各個撃破する。
併戦計
同盟国間で優位に立つために用いる策謀。

偸梁換柱 - 敵の布陣の強力な部分の相手を他者に押し付け、自軍の相対的立場を優位にする。
指桑罵槐 - 本来の相手ではない別の相手を批判し、間接的に人心を牽制しコントロールする。
仮痴不癲 - 愚か者のふりをして相手を油断させ、時期の到来を待つ。
上屋抽梯 - 敵を巧みに唆して逃げられない状況に追い込む。
樹上開花 - 小兵力を大兵力に見せかけて敵を欺く。
反客為主 - 一旦敵の配下に従属しておき、内から乗っ取りをかける。
敗戦計
自国がきわめて劣勢の場合に用いる奇策。

美人計 - 土地や金銀財宝ではなく、あえて美女を献上して敵の力を挫く。
空城計 - 自分の陣地に敵を招き入れることで敵の警戒心を誘い、攻城戦や包囲戦を避ける。
反間計 - スパイを利用し、敵内部を混乱させ、自らの望む行動を取らせる。
苦肉計 - 人間というものは自分を傷つけることはない、と思い込む心理を利用して敵を騙す。
連環計 - 敵と正面からぶつかることなく、複数の計略を連続して用いたり足の引っ張り合いをさせて勝利を得る。
走為上 - 勝ち目がないならば、戦わずに全力で逃走して損害を避ける。

孫臏
前歴
阿(現在の山東省聊城市陽穀県)・鄄(現在の山東省菏沢市鄄城県)の間の辺りにて生まれる。本名およびその父を初めとする家族については不明。

若い頃、龐涓と共に兵法を学び、龐涓は魏に仕官して恵王の元で将軍になることができた。しかし龐涓は孫臏に自分が及ばないことを感じていたので、偽って孫臏を魏へと招待し、孫臏を騙して罪に陥れ、臏刑(両脚を切断する刑)と額に罪人の印である黥を入れる刑に処した。その後は軟禁状態にあったが、斉の公族である将軍田忌(中国語版)が使者として魏へとやってきた際に密かに連絡を取り、その出立に合わせ車の中に隠れて魏を脱出することに成功した。

斉にて
斉では田忌の客となる。ある時、斉王(威王)と公子たちと田忌が馬を三組ずつ出して勝負する競馬を催した。孫臏は田忌に対して、上等の馬が出る競走に田忌の所有する下等の馬、中等の馬が出る競走に上等の馬、下等の馬が出る競走に中等の馬を出させることによって、田忌を二勝一敗させ千金を儲けさせた。これに気を良くした田忌は王に孫臏を推薦し、王は孫臏を兵法の師と仰ぐようになった。
桂陵の戦い
魏が趙を攻撃し、趙の都を包囲した。趙は斉に救援を求め、斉王は田忌を将軍とし孫臏と共に派遣した。だが、孫臏は趙に向かおうとする田忌を「絡んだ紐を解く時は無闇に引っ張るものではなく、喧嘩を止めさせる時は殴り合いに加わらないものです」と途中で留め、魏本国を攻めさせた。魏の本国には弱小老兵が残っているだけだったので、趙を包囲していた魏の主力軍は慌てて包囲を解き急いで引き返したが、強行軍で疲労困憊したところを斉軍に攻められ大敗(桂陵の戦い)した。こうして孫臏は趙を救った(これが囲魏救趙という故事となった)。

馬陵の戦い
13年の歳月が流れ、魏が龐涓を将軍として韓を攻めると、韓より斉へ救援依頼が来た。斉王は、孫臏を主将、田忌を副将にして軍を派遣しようとしたが、孫臏は田忌を推挙し、田忌が主将、孫臏は副将(実質的には軍師)となって韓へ向かった。田忌は前回同様魏の都を攻めようとし、孫臏は「龐涓は同じ過ちを二度繰り返す者ではなく、何かの備えはしているでしょう。しかし様子を伺わなければ分かりませんので、魏の都に向かいましょう」と答えた。孫臏の予測通り、龐涓も流石これに備えて本国にも精強な兵を残しており、斉軍を足止めする一方、韓攻略軍も引き返させた。防衛軍と攻略軍で挟撃しようというのである。これを知った斉軍は撤退するが、龐涓は打撃を与えるべく追撃する。撤退戦であれば追撃する側が圧倒的に有利だからである。

しかし、孫臏は撤退する振りをしつつ、龐涓の「魏の兵は命知らずの猛者だが、斉の兵は臆病者だ」という驕りを逆手に取り、斉軍の陣営の竈の数を前の日の半分、次の日は更に半分という具合に減らしていき、あたかも斉軍に連日脱走兵が相次いでいるかのように偽装した。追撃する龐涓はこの無様な様子を見て半ば呆れつつも勝利を確信し、あえて歩兵を後にし自ら足の速い精鋭の騎兵を率いて一刻も早く斉軍を捕捉しようと図った。一方、孫臏は、その先の隘路である馬陵(現在の山東省臨沂市郯城県)の地で、仕込みを始める。龐涓の部隊が日暮れに到達するであろう場所に木で障害物をつくり、側の木の枝に板を吊るして「龐涓死於此樹之下(龐涓この樹の下にて死せん)」と書き記させた。そしてその道の両側に1万の兵を伏し、兵たちに「日没のあと此処に火がともるであろうから、それに向かって矢を射よ」と命じた。
果たして計算通り、夜半になって当地に龐涓が到着。障害物に止めさせられた際、なにやら書かれている板があると兵が言ったため、自らこれを読もうと松明の火をかかげた。これに斉軍の伏兵が一斉に矢を放ち、暗中の魏軍は大混乱に陥った。自らが負けたことを悟った龐涓は「遂成豎子之名(遂に豎子の名を成さしむ→これで奴の名声を世に成さしてしまったか)」と言い残して自刎、若しくは矢によりハリネズミとなり戦死。魏の太子申は捕虜にされた。司令官を失った魏軍は斉軍に蹴散らされることになった。

この馬陵の戦いの大勝利により、兵家孫臏の名は天下に響いたと伝えられる。しかし孫臏のその後に付いては史書に記述がない。一説には兵法書を記していたとも言われている。

また、太史公の記述によると世間で軍学について引用する場合、『孫子』十三編の書物を述べないものはないと言われている。「能く之を行う者は未だ必ずしも能く言わず。能く之を言う者は未だ必ずしも能く行わず」という言葉があり、これは孫子が龐涓を計略に落としたのは明察である。だが刑罰のうきめきにあうときの処置を、あらかじめできなかったのは悲しいことであると評価している。

孫臏兵法
孫臏は孫武と同じく兵法書を著したが、彼の兵法は孫武の『孫子』と区別して『斉孫子』などと呼ばれていたらしい。しかしながら、次第に散逸し、あるいは現存する『孫子』自体が孫臏の著作ではないかとも推定されていたが、1972年に至って山東省で孫臏の著した兵法書の竹簡孫子が発掘されたことにより、『孫子』の著者ではないことが明らかになった。この新出土の兵法書は『孫臏兵法』と名づけられている。

孙膑(生卒年不详),字伯灵,华夏族,孙武后裔,齐国阿(今山东阳谷东北)、鄄(今鄄城北)一带人。中国战国时期军事家,唐德宗时位列武成王庙64将之一,宋徽宗时位列宋武庙72将之一。
孙膑早年曾与庞涓同学兵法。庞涓出任魏将后,妒孙膑之才而将其骗至魏,施以膑刑。后得齐国使者帮助潜逃入齐,为田忌门客,助田忌赛马获胜,被荐于齐威王。周显王十六年(公元前353年),齐威王欲任孙膑为将,孙膑以“刑余之人”而辞谢。周显王二十七年,因魏将庞涓率军攻韩,韩向齐求救,孙膑又以军师身份偕将军田朌、田忌、田婴等率军救韩。
孙膑既在战争实践中创造了影响深远的“围魏救赵”,又给后世留下了反映时代特点和战争规律的杰出军事理论。《汉书·艺文志》著录《孙膑兵法》89篇,图4卷,已佚。从中可见其兵法思想主张:“内得其民之心,外知敌之情”,主张“战胜而强立”“事备而后动”;在战略战术上贵“势”,即创造条件以求主动和优势;突破前人速战速决的理论,提出了持久作战的思想;适应通都大邑的兴起,强调攻城;认为只有覆军杀将方为全胜,开创歼灭战的理论;对野战中车垒运用、阵法研究、将领条件等均有阐述。

十阵
凡陈(阵)有十:有枋(方)陈(阵),有员(圆)陈(阵),有疏陈(阵),有数陈(阵),有锥形之陈(阵),有雁行之陈(阵),有钩形之陈(阵),有玄襄之陈(阵),有火陈(阵),有水陈(阵),此皆有所利。枋(方)陈(阵)者,所剸(专)也。员(圆)陈(阵)者,所以槫(团)也。疏陈(阵)者,所以 也。数陈(阵)者,为不可掇。锥行之陈(阵)者,所以夬(决)绝也。雁行之陈(阵)者,所以椄(接)射也。钩行之陈(阵)者,所以变质易虑也。玄[上羽下襄](襄)之陈(阵)者,所以疑众难故也。火陈(阵)者,所以拔也。水陈(阵)者,所以伥固也。枋(方)陈(阵)之法:必[博以酉易十](薄)中厚方,居陈(阵)在後。中之薄也,将以[上口下犬]也。重〔厚〕其〔方〕,将以剸(专)也。居陈(阵)在後,所以……〔圆阵之法〕:……〔疏阵之法〕:其甲寡而人之少也,是故坚之。武者在旌旗,是人者在兵,故必疏钜间,多其旌旗羽旄,砥刃以为旁。疏而不可戚(蹙),数而不可军者,在於慎。车毋驰,徒人毋驱(趋)。凡疏陈(阵)之法,在为数丑,或进或退,或击或[豕页](毁),或与之[人正],或要(邀)其衰。然则疏可以取阅(锐)矣。数陈(阵)之法:毋疏钜间,戚(蹙)而行首,积刃而信(伸)之,前後相葆(保),变□□□,甲恐则坐,以声坐□,往者弗送,来者弗止,或击其迂,或辱其阅(锐),笲之而无间,[车反]山而退。然则数不可掇也。
锥行之陈(阵):卑(譬)之若剑,末不阅(锐)则不入,刃不溥(薄)则不剸,本不厚则不可以列陈(阵)。是故,末必阅(锐),刃必溥(薄),本必[鸿去水](鸿、厚)。然则锥行之陈(阵)可以夬(决)绝矣。
〔雁行之阵〕……中,此谓雁陈(阵)之任。前列若[有雍](牖),後列若枋(方),三……阙罗而自存,之谓雁陈(阵)之任。
钩行之陈(阵):前列必枋(方),左右之和必钩。参(三)声气(既)全,五菜(彩)必具,辩(辨)吾号声,知五旗。无前无後,无〔左无右〕……
玄[上羽下襄](襄)之陈(阵):必多旌旗羽旄,鼓[上羽下非][上羽下非]庄,甲乱则坐,车乱则行,已治者□,榼榼啐啐,若从天下,若从地出,徒来而不屈,终日不拙。此之谓玄[上羽下襄](襄)之陈(阵)。
火战之法:沟垒已成,重为沟渐(堑),五步积薪,必均疏数(密),从役有数(多余之数),令之为属枇,必轻必利。风辟……火气(既)自覆,与之战弗克(克),坐行而北。火战之法:下而衍以[艹外],三军之士无所出泄。若此,则可火也。陵猋蒋[艹外],薪荛气(既)积,营窟未谨。如此者,可火也。以火乱之,以矢雨之,鼓噪敦兵,以势助之。火战之法。
水战之法:必众其徒而寡其车,令之为钩楷苁柤[上咸下贝]辑□绦皆具。进则必遂,退则不戚(蹙),方戚(蹙)从流,以敌之人为召(招)。水战之法,便舟以为旗,驰舟以为使。敌往则遂,敌来则戚(蹙),推攘因慎而饬之,移而革之,陈(阵)而〔待〕之,规而离之。故兵有误车有御徒,必察其众少,击舟[豕页]〔毁〕津,示民徒来。水战之法也。
七百八十七。

城濮の戦い
事前の経緯
紀元前638年、宋の襄公と楚の成王が激突した泓水の戦いは楚の大勝に終わり、宋は楚の影響下に置かれることになった。

その翌年、晋の亡命公子である重耳(後の文公)は斉から宋へと向かった。宋の襄公は重耳の器量を知っていたため国君に対する礼をもって迎え入れ、重耳は歓待を受けた。襄公はこのあとまもなく泓水の戦いの戦傷のため死去する。その後で重耳は楚へと入り、成王は諸侯の礼をもって重耳一行を迎え入れた。宴の最中に成王は「もし国に帰って晋公になることが出来たら私にどう報いてくれるでしょうか?」と問いかけた。重耳は「もし王とやむを得なく戦場で相まみえることがあったら三舎だけ軍を引きましょう。」と応えた。これは軍隊が一日進んで宿営することを一舎といい、三舎とは三日分退く行程のことを指し、相手に一目置くという意味と同時に手加減するという意味がある。これに成王の臣下である子玉は王に対して無礼だと怒り、殺してしまいましょうと成王に言ったが、成王は重耳の亡命中である立場と器量を認めていたのでこれを退けた。

その後、重耳は秦の助けを借りて晋公の座に就く(以後、文公とする)。文公は狐偃・先軫らの補佐を受けて、周王室の内乱を収めるなど急速に勢威を広げていた。襄公の後を継いだ宋の成公は晋の力を借りて楚の影響下を脱しようと、楚との盟約を反故にして晋との親善を深める。このことに不快感を抱いた楚の成王は紀元前633年に軍を発し、陳・蔡・鄭・許らの諸侯と共に宋の首都を包囲し、宋は晋へ救援を求める。

これに応えて文公は三軍を召集し、宋の救援へと向かう。

晋軍の編成
中軍
将・郤縠、佐・郤臻
上軍
将・狐偃、佐・狐毛
下軍
将・欒枝、佐・先軫
(『史記』による。『春秋左氏伝』には狐毛が将、狐偃が佐になっている。)

城濮の戦い
紀元前632年、晋軍はまず楚の盟下にある曹を攻めようとし、衛の成公に領内の通過許可を求めた所、断られた。かつて放浪時代に先代である衛の文公に侮辱を受けていたこともあり、怒った文公(重耳)は衛を攻めて五鹿と言う土地を奪った。この後で郤縠が急死したので代わって先軫を中軍の将に抜擢した。

衛国内で斉の昭公と会盟し、今後のことを話し合った。晋に攻められて恐れていた成公がこれに参加したいと申し出てきたが、文公はこれを撥ね付け、成公は更に楚に和親しようとしたがこれも断られ、成公は臣下により追放され、衛は晋に降った。その後で曹を攻めて、これも降す。

この戦果を元に、先軫の進言により、「衛と曹の土地を宋に与え、その土地を斉と秦に割譲する。その上で宋から斉・秦に宋包囲を止めるようにと楚へ言ってもらう。盟下にある衛と曹を守らねばならない楚はこれを断るに違いない。そうすれば斉・秦は楚を恨むようになるだろうし、楚の方も宋を攻めるよりも衛・曹の方へと意識が向くだろう。」という策を実行し、思い通りになった。

戦況が不利になったと見た成王は本国へと引き上げていった。しかし子玉は成王の怒りを買いながらも残留し、晋に対して「晋が衛と曹を許すなら楚も宋を許す」と申し入れてきた。晋はこれを逆手に取り、衛と曹を寛大に許してやり、衛と曹は楚との盟約を破棄し、晋に親しむようになった。

このことに怒った子玉は晋軍を攻撃する。この攻撃に対し臣下はこのまま楚軍と戦うことを進言したが、文公は圧倒的優勢な立場でありながら軍を三舎退かせて、かつての約束を守った。

4月己巳の日に両軍は城濮で激突。
楚軍の編成
中軍・成得臣(子玉)
左翼・鬬宜申(子西)
右翼・鬬勃(子上)
まず楚の右翼が晋の下軍に攻められて崩れる。その後、上軍と下軍はわざと負けた振りをして楚の左翼をおびき寄せ、中軍と挟み撃ちにしてこれを破った。

戦後
晋の大勝に終わり、晋は践土(現在の河南省新郷市原陽県)と言う所に王宮を作り、ここに周の襄王を招いて、諸侯と会盟した。この時に楚の盟下にあった鄭も晋の盟下に移った。文公は襄王からのもてなしを受け、覇者と認められた。

一方、敗れた子玉は楚へと帰還するものの成王の怒りに触れて自殺を強いられる。

この戦いにより楚の盟下から宋・曹・衛・鄭の四国が晋へと移ったことになり、更に晋と斉・秦の結びつきもいっそう強くなり、以後景公の代に荀林父の率いる晋軍が楚の荘王に敗れるまで(邲の戦い)は晋の覇権が確立される。

城濮之战,是周襄王二十年(公元前632年)晋、楚两国在卫国城濮(山东鄄城西南)地区进行的争夺中原霸权的首次大战。晋文公兑现当年流亡楚国许下“退避三舍”的诺言,令晋军后退,避楚军锋芒。子玉不顾楚成王告诫,率军冒进,被晋军歼灭两翼。楚军大败。

战争经过
退避三舍
子玉率军急进,依托丘陵险阻扎营,两军对峙于城濮。晋文公退避三舍,既是报答以前楚成王给予的礼遇,也是运用“卑而骄之”、“怒而挠之”的诱敌之计,子玉上钩了。
楚子玉派大将斗勃向晋文公请战说:“请与君之士戏,君凭轼而观之,得臣(子玉名)与寓目焉。”晋栾枝答词却相当谦恭:“寡君闻命矣。楚君之惠,未之敢忘,是以在此。为大夫退,其敢当君乎?既不获命,敢烦大夫谓二三子:戒尔车乘,敬尔君事,诘朝相见。”
双方阵容
城濮交战时双方的阵容是:晋三军,即先轸为元帅,统率中军,郤溱辅佐,狐毛统率上军,狐偃辅佐。栾枝统率下军,胥臣辅佐。楚国也是三军,即令尹子玉以若敖之六卒统率中军。子西(斗宜申)统率左军。子上(斗勃)统率右军。楚的仆从国郑、许军附属楚左军,陈、蔡军附属楚右军。
两军交战
四月六日,晋军在城濮严阵以待楚军。子玉狂傲声称:“日必无晋矣。”当两军接触之时,晋下军佐胥臣率所部用虎皮蒙在马身上,首先冲击楚右翼的陈、蔡军,陈、蔡军惊骇逃散,楚右军溃败。楚子玉、子上见右军溃败,怒火中烧,加强对晋中军和上军的攻势。晋右翼上军狐毛设将、佐二面旗帜,令二旗后退,引诱楚军。晋下军栾枝所部也以车辆曳树枝奔驰而伪装后退。楚子玉以为晋右翼败退,令楚左军追击,所以对陈、蔡及右翼军溃败并未理会。楚左军追击晋上军时,侧翼暴露,晋先轸、郤溱率中军拦腰截击,狐毛、狐偃率上军夹攻楚左军,楚左军溃败。楚子玉见左、右军皆败,遂下令中军停止进攻,得以不败。子玉率残兵退出战场,晋军进占楚军营地,休整三日后,胜利班师。
战术运用
城濮之战开始前,晋国就定下了“楚始得曹,而新婚于卫,若伐曹、卫,楚必救之,则齐、宋免矣”这样一个总的作战方针。
第一阶段先从卫国下手,初战取胜,为晋、齐之盟奠定了基础,也逼迫鲁国从楚的阵营中分化出来。
第二阶段围曹,入曹。至此,附于楚国的曹、卫两国都被征服,大地削弱了楚国的力量。接着又用先珍之谋使齐、秦两国“喜赂怒顽”,与晋结为联盟拒楚,以解除晋国的后顾之优。
在第三阶段与楚国的正面交锋中,晋国恰当地选择了战场,避开楚国主力部队的锋芒,以下军之佐首先对组成楚右翼部队的陈、蔡两国军队发起进攻,楚右师战败。然后以“伪循,诱敌深念以上军合攻楚左翼部队,楚左师溃。这样晋国就造成了事实上对楚的优势,掌握了主动权,使自己处于有利的战略地位,从而取得了最后决战的胜利。
《左传》城濮之战的描绘令人信服地使我们看到,晋国的每一步胜利,都是同充分发挥将帅的主观能动作用,适应客观规律,采取正确的战略战术分不开的。战争是敌我双方力量的竞赛,但力量在战争中不是凝固不变的,而是变化的因素。人的主观努力,指挥员的能动作用的发挥,战略战术的恰当运用,对于敌我力量的转化,都起着极大的作用。孙子主张在作战指导上要“致人而不致于人”,主张“庙算”。孙膑主张“变”、“权”。《左传》通过城濮之战记叙,在主、客观关系的问题上,形象地反映了和孙子、孙膑同样的朴素的军事辩证法思想。
战争结果
城濮一战中,晋国大胜,晋文公建立了霸权,楚国北进锋芒受到挫折,被迫退回桐柏山、大别山以南地区。中原诸侯无不朝宗晋国。
楚国大将子玉羞愤自杀。
再之后,晋军进入郑国衡雍(河南原阳县西,当时在黄河南岸),并在践土(距衡雍较近,当时亦在黄河南岸,在河南花园口黄河北岸)修筑王的行宫,向襄王献俘。周襄王策命晋文公为“侯伯”。晋文公要求诸侯“皆奖王室,无相害也。有渝此盟,明神殛之,无克祚国”。晋文公在“尊王”的旗帜下,顺理成章地登上了霸主宝座。


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  •  你看这个医生看病第一等的高明,那真的是医生,“非天非鬼”并不是什么被鬼迷了,或是上帝菩萨使你病,没有,都是自己的寒温虚实问题,或由饥饱、色欲、精虑烦散来的。 
  •   日前,记者就此话题询问了40余位不同年龄段的老人,他们几乎全票支持此类方式,由此可见,老人们对于保持原居养老状态心里会更踏实、更有托付感。  一个依靠 家门